赤坂憲雄が語る「宮崎駿の詩学」(2)
前回の続きで、集英社オンラインに掲載された赤坂憲雄氏へのインタビューから抜粋します
のっけから余談ですが、Amazonのサイトに掲載されている赤坂憲雄著「ナウシカ考」(岩波書店)のレビューの1つに、「(宮崎駿の思想を理解したいのなら)『ナウシカ考』を読むより、宮崎駿のインタビュー本を読んだ方がよい」とのコメントがありました
宮崎駿自身が自作について語っているのだから、そちらを読むべきであり、どこかの研究者があれこれ屁理屈を並べているような本からは何を理解できない…と言いたいのかもしれません
ですが、こうした指摘は大間違いです。書かれたテクスト(この場合は「風の谷のナウシカ」)を作者自身が一番よく判っているとは限らず、そこには部外者によるさまざまな解釈の可能性が内包されているわけで、宮崎駿が思いもしなかった解釈ができたりするわけです。であるからこそ、評論というものが成立します
夏目漱石の作品や村上春樹の作品に多くの批評が行われ、それは決して止むことはありません。今後も批評が繰り返されるのでしょう
同じように、宮崎駿の作品も多くの批評・論評が試みられ、この先もその営為は続くのです
宮﨑駿の中心にある、世界を考えるための「問い」『宮﨑駿の詩学』赤坂憲雄 インタビュー
人類の進歩を否定も肯定もしない
──興味深かったのは、赤坂さんが宮﨑駿の作品から、近代以前の部族共同体が抱え持っていた反国家的な思想を読み取られていたところです。赤坂さんはフランスの人類学者ピエール・クラストルの言説を参照しながら、宮﨑のなかに「国家に抗おうとする社会への憧れ」があることを指摘されていました。確かに宮﨑映画では近代以前の部族が理想的な社会モデルとされているふしがありますね。
宮﨑駿の映画で中心的に描かれている共同体はせいぜい数百人で構成されているものが多いんです。だからそのリーダーも王ではなく、族長と言ったほうがいいでしょう。彼女・彼らは支配的な権力を振るうわけではない。持っているのは言葉だけ。そういう部族社会のあり方を宮﨑さんは理想形として考えているんじゃないかと僕は思います。
宮﨑さんは国民国家を肯定的には描きません。例えば『紅の豚』には不思議な空賊が出てきますが、あそこにあるのは、かつて網野善彦が何にも属していない空間を指して言った「無主・無縁」の世界のようなものです。調べてみると、実際に一九二〇年代後半のアドリア海にほんの短い期間、国家と国家の隙間のような状態があったらしい。それを作品に投影したのかはわかりませんが、宮﨑さんのなかにアジールに生きている人たちへの共感のようなものがあるのは確かだと思います。
──近代以降の人間が重んじた進歩史観に対する宮﨑駿の鋭いまなざしは、火の技術の描き方にも表れていますね。火は人類にとって豊かな恵みでもあるが、大量殺戮へと繫がる技術の動力源でもある。宮﨑はその両義性を映画のなかで見つめ続けてきたのだと赤坂さんは書かれていました。ここで重要なのは、宮﨑が火の力を否定も肯定もしていないことだと思います。
そうですね。例えば『もののけ姫』では遊女やハンセン病者といった差別の対象とされてきた人たちが武器を作るタタラ場が出てきましたが、あそこは火の技術の拠点のようなものです。あの場所を率いるエボシ御前は、新しい武器によって国家的な秩序を根底から突き崩そうと考えているわけですが、宮﨑さんはその野心を肯定するわけではない。あるいは漫画版の『ナウシカ』で城オジたちが「火は森を一日で灰にする。水と風は百年かけて森を育てるんじゃ」と言いますが、では宮﨑さんがその思想を自分のものとして老人たちに言わせているかというと、そうではありません。
『ハウルの動く城』ではカルシファーが火の神にして悪魔でもある存在として描かれますよね。僕はあの作品には「人類にとって火とは何か」という根源的な問いかけがあると思っています。それに対して結論はありません。宮﨑さんはいつも問いを提示しているのであり、答えを人々に伝えているのではない。それはとても大切なことだと思いますね。
(集英社オンラインの記事から引用)
前回、宮崎駿の作品は「作者自身によるメッセージではなく、問いかけである」とする赤坂氏の見解が重要だと書きました
作品論とは、作者の発するメッセージ(あるいは作者が意図しないメッセージ)を探る試みです。あるいはどこまで深読みできるか、あるいは読み誤りと思えるほど大胆不敵に読み替えられるか、を探る試みです
これには1つの先例があって、フランスの精神分析家ジャック・ラカンは精神分析の始祖であるフロイトの理論を大胆に読み替え、「フロイトが本当に言いたかったのはこうだ」と、従来の学説や解釈を否定して持論を堂々と展開しました。ラカンの主張は多くの批判を浴びたのですが、同じくらい賛同する人もいたのです
先に書いたところの、テクストを読み替え、再定義し、そこに書かれていないとこまで踏み込んで解釈する…といった営為は精神分析そのものです
逆に、宮崎駿自身が取材に応じ自作について語る…といった記事、書籍は精神分析的な試みではありません。だからこそ、こうした類のインタビュー本をいくら読もうと、作品の深層には届かないのです。例え宮崎自身が作品にああだ、こうだと語ろうとも、それは表層の部分に留まり、深層には至らないのですから
精神分析で重要なのは、「彼が何を語ったかではなく、何を語らなかったか、何を語ろうとして躊躇したか、を洞察すること」にあると自分は受け止めています
なので、宮崎駿のインタビュー本を読んで、作品を理解したつもりになっている…というのはあまりに愚かしいことと言わざるを得ません
さて、話を戻して赤坂氏が「宮崎駿の詩学」と著作のタイトルと付けたのは、ミハイル・バフチンがドストエフスキー作品に関する研究を「ドストエフスキーの詩学」と題してまとめたことに由来します
バフチンはドストエフスキーの小説の特徴を「ポリフォニー」と表現しました。「ポリフォニー」とは音楽用語で、多重声部といった意味です。いくつもの声(声部)が重なり合い、1つの楽曲を表現するものです。宮崎作品で言うなら、ナウシカがシュワの墓所へ向かう前、庭園の牧人(ヒュドラ)と対話をするシーンを思い浮かべてください。ナウシカは牧人との対話が展開されますが、そこでナウシカは世界の隠された秘密を朧気ながら察知します。対話が物語の転回点をもたらし、新たな方向へと進める役割を果たす役割を担っているのだと判ります
「ナウシカ」の中にいくつもの重要な対話のシーンが描かれており、そこで物語は動き出し、転換し、加速し、クライマックスへと向かって行く…というダイナミズムを、赤坂氏は「詩学」というタイトルの中で表現したかったのだろう、と推測します
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