赤坂憲雄が語る「宮崎駿の詩学」(1)

以前に当ブログで取り上げた、宮崎駿研究の本「ナウシカ考 風の谷の黙示録」(岩波書店)の著者、赤坂憲雄氏の新著、「宮崎駿の詩学」(集英社)が刊行されています
出版元である集英社オンラインに赤坂憲雄氏のインタビュー記事が掲載されていますので、取り上げます
まず、本書のタイトル「宮崎駿の詩学」が、自分はミハイル・バフチン著「ドフトエフスキーの詩学」を思い起こすのですが、前著「ナウシカ考」でも「ドストエフスキーの詩学」に言及しており、意図的なタイトルのようです
それはともかく、集英社は以下のように本文を切り出し、宣伝に用いています


――それは、廃墟に生きる者たちへの贈与であり、祈りであった。
宮﨑駿はいかに世界を描いたか。
『未来少年コナン』から『きみたちはどう生きるか』に至るまで、地・水・火・風・空の五元素から、その豊かさを読み説く。
『ナウシカ考』著者による集大成的宮﨑駿論。
これほど繊細にして、豊饒に、人間とその生きてあり、生かされている世界について、その森羅万象について、透徹したまなざしをもって描かれたことがあっただろうか。むろん、宮﨑駿とそのアニメーション映画に想いを馳せながら、わたしは書きつけている。それは、あきらかに事件であった。
(中略)わたしはただ、この事件に偶然のように立ち会い、それを目撃した同時代に生きる者の一人にすぎない。だから、そこに提示されている大地や水や火や風、そして天空といった世界を構成する元素が精妙に織りなす舞踏か、祝祭にも似た光景に眼を凝らしてみたい、と願う。そうして山川草木のざわめきのなかで、鳥獣虫魚たちが交わしあう生命の祭りの諸相を、宮﨑アニメというテクストを丁寧に読みほどきながら、掘り起こしてみたい。
――本文より


自分がひっかかったのは「地・水・火・風・空の五元素から、その豊かさを読み説く」と書かれた部分です。西洋の思想では四大元素という考え方があり、ギリシアの古代哲学者は土・水・火・風が世界を構成する源であると考え、ヨーロッパから中近東まで広くその考えが行き渡っていました
この四大元素であれ、五元素であれ、こうした固定的な要素で入口を固めてしまうと、それぞれの属性にかこつけた思考の展開になってしまいます。つまりは火の要素にかこつけ、火の役割や、火=科学文明とか火=核兵器などと思考の幅が制約される落とし穴があると懸念されます
元々、宮崎駿が「風の谷のナウシカ」(マンガ版)を執筆し始めた時点で、「地・水・火・風・空」の五元素を意識して構想を展開していたのではないはずで、作品解釈にあたり、これら五元素を持ち出す必然性があるのか、大いに疑問です(もちろん、そうした試みも可能性としてはアリで、どこまで読み解けるのかお手並み拝見、です)
まだ、「宮崎駿の詩学」を手に取って読んでもいない時点で、その基本的な解釈の枠組みを全否定してかかるというのはあまりに暴虐なのですが、まずは大前提の部分でひっかかりを抱くと明かしておきます
フランスの精神分析家ジャック・ラカンは「人格には5つのパターンがある」とか「人間の性格は7つの類型に分けられる」などの考え方を批判し、「彼は5つまでしか数えられなかったのだろう」と皮肉っています
つまり、人格を考える上で「大きく5つの類型に括って考えるモデル」というのは無駄ではありませんし、有効です。しかし、5つの類型というモデルが結果として、「人格は5つの類型しか存在しない」と思考を制約してしまう危険性も伴います。それでは逆効果です
常に5つの類型の外にあるものを意識し、類型に当てはまらないものを視野に入れて考察しないと見誤ってしまうのです
前置きが長くなりました。集英社オンライン掲載の記事の一部を貼ります


──つまり、宮﨑駿の作品は一つのメッセージを持つものではない。宮﨑映画の中心にあるのは、この世界について考えるための問いなんだということですね。
僕が言いたかったのはまさにそれです。メッセージじゃないんですよ、宮﨑さんの映画にあるのは。多くの人たちはそこを誤解している。例えば『ナウシカ』を観て、エコロジーの正義を体現した作品だと受け取ってしまうように。僕はそういう解釈の仕方をしたくなかった。だから今回の本では個々の作品論を展開しませんでした。それだとメッセージやテーマを探すことになってしまうから。
宮﨑さんが映画を作るのは、問いかけたいからなんだと思います。火とは何か。大地とは何か。風とは、空とは、水とは何か。そういう根源的な問いをぶつけ合ったり、重ね合わせたりしながら映画を作っている。それらの問いを『君たちはどう生きるか』までが揃った現在の鳥瞰的な視点で見つめると、さっきおっしゃったような一つの壮大なタペストリーが見えてくるんです。 
──「空の章」では、「宮﨑駿がつねに極限において問いかけていたのは、技術と権力の隠微にして不条理な関係であった」と書かれていました。宮﨑は人類が犯した過去の過ちを現在の正義から断罪したり反省したりするために映画を作っているわけではない。赤坂さんはそう考えるからこそ、実家がゼロ戦を作っていた宮﨑駿の戦争経験のような、個人的な原体験を探る方に筆を向けないわけですね。
火は悪であると言ったら人間は人間じゃなくなるんですよね。漫画版『ナウシカ』には森の人が出てきます。彼らは火を捨てた人たちです。火を使った武器を持たず、火を使って料理することもしない。ナウシカはそんな彼らに仲間にならないかと誘われますが、拒む。つまり、火を捨てた人類のあり方を認めるわけではない。
宮﨑さんは一つの答えに収斂させるような物語の組み立て方は絶対にしません。自然を愛するからと言って、そういう自分の思考に合った映画を作り、観客から共感を得ようとはしない。だからこそ、一つの作品のある断片だけを切り取って、宮﨑駿はエコロジーの思想を唱えていると決めつけるような読み解き方では、彼の映画の豊かさは捕まえきれないと思います。


こうした指摘はさんざん言われてきたのですが、それでもなお宮崎駿の言動を曲解する人たちがいます
自然を愛するトトロのおじさん=宮崎駿が、「風立ちぬ」で戦争で使われる戦闘機開発の話を作品化したので失望した…などと、勝手に批判している人たちです(それ以前、「紅の豚」で飛行艇による戦闘シーンを描いているわけで、宮崎が飛行機オタクだと判るはずですが)
誤解が生じるのは、「映画の中にあるメッセージが何か、それを読み取ること」が作品を鑑賞する目的であり、意義だという前提に立っているからでしょう。かくして、読み誤った「メッセージ」をあちらこちらで語り、SNSで発信しているわけです
上記の引用部分で赤坂氏が、宮崎作品は「メッセージではなく問いなのだ」と指摘しているのは実に重要で、まさにコペルニクス的転換でしょう
長くなりましたので、一旦、区切りとします

(関連記事)
赤坂憲雄が語る「宮崎駿の詩学」(2)
赤坂憲雄「ナウシカ考」を読む その2
赤坂憲雄「ナウシカ考」を読む その1
「危機の時代に読み解く『風の谷のナウシカ』」
長谷正人の論文「宮崎駿試論」を読む
宮崎駿作品「君たちはどう生きるか」で賛否
「風の谷のナウシカ」 リーダーシップ論の在り方
「ナウシカはなぜ人工知能を拒絶したか」 文春オンライン
「風の谷のナウシカ」 アニメーションを読む方法
「ナウシカ解読」における4つの問いを考える
「ナウシカ解読」
「風の谷のナウシカ」 深淵と虚無を超えて
「風の谷のナウシカ」と自然・環境問題 その2
「風の谷のナウシカ」と自然・環境問題 その1
「風の谷のナウシカ」 その世界観を問う
「風の谷のナウシカ」 死と再生を考える
ナウシカの正義とサンデル教授「白熱教室」

上記以外の宮崎駿に関する記事は、本文右のラベルリストから「宮崎駿」を選択すると表示されます