京王線ジョーカー男事件と奇妙なコラム

何とも無骨なタイトルをつけてしまったのですが、他に表現のしようもないのでこのタイトルで書きます
京王線ジョーカー男とは、2021年10月、走行中の京王線車内で刃物を振り回したりライターのオイルに放火し、乗客を無差別に殺害しようとした服部恭太受刑者を指します
彼の犯行についてはさまざまな立場の人が語り、おそらくは服部受刑者の心情・思惑・孤独・閉塞感などとはまったく異なった物語として拡散されてしまった感があります。自分も彼に犯行について思うがまま語った人間の1人です
おそらく服部受刑者に直接会い、話を聞き出せばまた違った印象を受けるのかもしれません
ただ、服部受刑者の犯行はそれを聞いた人が解釈し、咀嚼し消化したとおりに語られるしかありません。服部受刑者が世の中の1人、1人に対し、「自分の本心はこうだったんだ」などと言って回り、訂正を求めるのは不可能です
自分もブログで取り上げるにつき、多くの報道やコメント、論評など見たのですが、中でも奇妙で共感できそうにないコラムを取り上げておきます。それが今回のタイトルの意味するところです
プレジデントオンラインに掲載されたコラムニスト河崎環という人物による文で、何とも表現のしようがない違和感を覚えるコラムです
いつものようにコラムからの引用部分は赤字で、自分のコメントは黒字で表示します


才能はないが注目されたい…「京王線のジョーカー」と迷惑系ユーチューバーの共通点
(前略)
「コスパの高い」自爆テロは貧者が出せる最後の呪文
映画『ジョーカー』を見て本当に感じるべきは、まさにこの打ちのめされた被害者意識が主人公のロジックであり、自分自身を正しく相対化できず妄想にのめり込んでいった理由であったという、制作者のメッセージである。
ジョーカーの弱々しく無様なダンスや、他者の感情をうかがうようにして向ける哀しい泣き笑いや、誰の耳にも届かない獣のような咆哮や、ラストで暴徒と化した群衆に祭り上げられて戸惑いながらほころぶ表情や、暴徒たちのジョーカーに対する安易な英雄視すら、全ては「どうしようもなく惨めである」との視点をブラさず描いているのだ。社会的弱者の絶望をこんなに冷静な視線で丁寧に描いた映画で、ジョーカーに憧れてしまっては、この映画のメッセージをきちんと受け取れていないと言うしかない(が、今さらそんなことを言ったところで何の意味もないのだろう)。

ジョーカーの弱々しく無様なダンス】とは、あの有名な階段でのダンスシーンなのでしょうか?あるいは地下鉄車内で絡んできた男たちを射殺した後、トイレに駆け込んだアーサーが鏡に映る自分の顔を凝視した後、ゆったりと踊りだすシーンなのか?
どちらにしても、なぜ「弱々しく無様なダンス」だと筆者が感じたのか、自分には理解できません。己の内なる狂気を開放しようとしているかのように、自分には見えます
動画は出しませんが、トイレの中でゆったりアーサーと踊りだすシーンも、弱々しさなどなく、無様でもありません。むしろ、孤独と崇高さすら感じるシーンになっています
ちなみに、下段にある階段でのダンスはアーサーを演じたホアキン・フェニックスのアドリブであり、このダンスシーンにジョーカーの本質を見た監督が慌ててカメラを回したと伝えられています(何度か撮り直したのでしょう)

ジョーカーの階段ダンス

また、映画「ジョーカー」で描かれているのは、筆者の指摘するところ、【暴徒たちのジョーカーに対する安易な英雄視すら、全ては「どうしようもなく惨めである」との視点をブラさず描いている】というより、アーサーの狂気がいともたやすく暴徒たちの狂気とシンクロしてしまう怖さ、だと自分は感じます。それを【惨め】だと決めつけるのは筆者の感性・価値観ゆえだと自分は考えます

「暴動」も「無差別殺傷」も、要は関わりのない人を巻き込む犯罪、テロだ。かつて追い詰められた無策な日本軍が自棄になり、特攻という自爆テロ作戦を選んで数々の兵士の自己犠牲を招いたのと同様、自己犠牲テロは「追い詰められた貧者」が、尽きた選択肢の中で最後に選ぶ、非常に皮肉な意味で「コスパの高い」最後の呪文なのである。

この部分も共感できない文章であり、わざわざ最後の呪文などと表現する意図が不明です。「特攻」も「玉砕」も日本の軍部が惨めな負け戦を糊塗するため編み出した言葉であり、一般兵士は「特攻」や「玉砕」を望んでいたわけではありません。上官に押し付けられ、強要され逆らえなかったのが本質でしょう
ほとんどの兵士は生きて故郷に帰りたかったはずです。それとテロを同一視する論理が理解不能です。なので、「日本軍」と一括りにするのではなく、軍の指導部や作戦責任者と明確にすべきでしょう。作戦の失敗を認めたくない故、全員玉砕を命じたのですから
また、「暴動」にもいろいろ中身があるわけで、こうも単純に「暴動」と「テロ」を同一視して語る筆者の構成の仕方に違和感しかありません
これでは「天安門事件」も「ミャンマーにおける学生の蜂起」もテロ扱いになってしまいます

「人を殺せば、死刑になると思った」。どこかで何度も聞いたことのある、安い言葉。彼の渾身こんしんのドラマすら、安くお手軽なYouTube規模で嘲笑され、無料のSNSで無責任に拡散される。そんなものに他人や自分の命を懸けるほどの価値が、どこにあるというのだろう。

そんなものに他人や自分の命を賭けるほどの価値が、どこにあるというのだろう】と結んでいるわけですが、筆者にとっては「そんなもの」でしかないのか、と逆に感じてしまいます。ここでは「そんなもの」=暴力によって無差別に他人を殺傷する行為、だと解釈されますが
暴力を肯定する気はありませんが、暴力は人類が生まれ持った行動であり、有史以前から繰り返されてきたものです。ここでは暴力を狂気に置き換えて語ります
映画「ジョーカー」はアーサーの惨めさ、弱々しさを描いたものでもなく、安易な英雄視をする大衆を嘲笑うために作られたのでもなく、アーサーの内なる狂気が表出する過程を冷静に描き出した作品だと自分は思います
アーサーはコメディアンとしてテレビショーに出演する目標を持ち、それに向かって日々生きることで己の狂気を抑え込んでいたのでしょう
しかし、コメディアンになる目標を捨て、テレビ司会者を射殺する経緯の中で狂気を抑え込むのを止め、狂気の噴出するのに身を委ねるようになる…というストーリーです
なので、このアーサーの変貌を「そんなもの」と切って捨てるような扱いはできません
話を戻して、服部受刑者が何を諦め、何を投げ捨て、何を目指したのか、報道されている内容だけでは把握できません。が、それでも彼の人生は「そんなもの」と切って捨てられるほど無価値ではなかったはずです
以上、とりとめもない内容になってしまいましたが、何とも自分では咀嚼しきれない奇妙なコラムの一部を取り上げました
1つの事件、1本の映画にさまざまな解釈があり、感想があるのは当然です。が、自分の感じるところと極端に異なる意見に触れると、「?」と思います。見解の相違と言えばそれまでですが、そこを敢えてツッコんでみました

(関連記事)
映画「ジョーカー」 あの山上徹也被告にも影響を与えた
京王線刺傷事件を考える 判決文を再検討
https://03pqxmmz.seesaa.net/article/510265051.html
京王線刺傷事件を考える 判決内容を読んで
京王線刺傷事件を考える ジョーカー男に懲役23年判決
京王線刺傷事件を考える いじめ被害が原因なのか
京王線刺傷事件を考える ジョーカー男に懲役25年求刑
京王線刺傷事件を考える 公判で殺意は「わかりません」
京王線刺傷事件を考える ジョーカー男殺人未遂で起訴
京王線刺傷事件を考える 精神鑑定実施へ
京王線刺傷事件を考える ジョーカー男の心理
京王線刺傷事件を考える ジョーカーのコスプレ
相次ぐ列車内殺傷事件は承認欲求の産物?
玉川徹「社会に牙をむく若者が増えるのは当然」