採用面接で「ポジティブな物語」は必要なのか?

現在、就職を目指す大学生らはさまざまな採用面接必勝法なるものをマスターする必要に迫られているようです。これは大学生に面接を乗り切るためのノウハウを提供する団体・企業が増え、同時に企業に採用活動に必要なノウハウを提供する企業が増えた結果でしょう
自分が就職する時期、エントリーシートとか自己分析シートなど存在せず、単に志望動機を語るだけで済んでいました。それも深い内容はなく、適当に思いついたことを語っていただけです
ところがここ最近はで、採用面接を受ける学生たちに企業側が「何らかの物語」を求める傾向が顕著となっており、それに違和感を覚えると指摘する記事がありましたので取り上げます
学生時代に何を学び、何に熱中し、何を得たのかを語らせ、その人となりを判断しようとの意図なのでしょう。が、皆が皆、感動的な大学生生活を過ごしてきたわけでもなく、そこには嘘も混じる危険があります


面接にも広告にも…「人生は物語」に感じる違和感の正体!「ナラティブ」過剰の問題
(前略。
さらには、近年盛り上がりをみせている人生の意味の哲学では、人生の意味とは何か、という問いに対して、物語的に生きることで見出されるものだとする「物語説」が存在感をもっている(マッキンタイア 1993; Velleman 1991; Schechtman 2007)。
あるいはもっと身近な話をしよう。
ありふれすぎた「青春」のイメージ
ポカリのCMを眺めていると、いつも若く健康で元気な学生が(とりわけ女性の学生が)走っている。
既にパブリックに行き渡った「青春」のイメージ––––光る汗、友情、焦燥感、夏––––をこれでもかと描写する。ドラマティックで感動的な話が語られ、人々は「エモい」と称賛する。
自分の好きなアイドルや配信者を応援する推し活では、推しが成功していく成功譚を眺めることが喜びになり、そのためにお金を費やすことは美徳のように語られている。
就職活動の面接では、学生時代に力を入れたガクチカが尋ねられ、これまでの来し方を「自己分析」させられ、挫折経験とそこからの回復をドラマティックに語ることを要求されたりする。
私は端的にこう思う。何かがおかしい、と。
人生を解釈しすぎるから心身に不調が訪れるのではないか、と思うし、未来を描く際にはストーリーではなく、人文的な知識をしっかりと勉強すべきだと思うし、人生の意味を感じるのに物語を通す必要など感じない。
なぜ青春はいつもドラマティックなのか。もっと穏やかな青春が私にとっての宝物であるし、感動ポルノめいた話には嫌悪を感じ、推し活で推されるアイドルたちが、期待される物語を生きようとする様に心苦しくなり、就職活動に勤しむ知人たちが物語を強要されることに憤りさえ覚える。
(中略)
「人生そのものは物語ではない」
物語には確かに力がある。だが、その力はもっぱら悪い方に作用しているのではないかと感じ始めた。先に述べたようなさまざまな「物語」の盛り上がりを眺めていて、何かがおかしいと感じた。
人々があまりにも物語に没入しているのではないか、あまりにも物語の力を信じすぎているのではないか、と。
同じように、物語の悪さを指摘する議論は最近いくつか現れているが、どれも結局のところ、物語をうまく乗りこなすススメを言って終わる(ゴッドシャル 2019)。世界は物語に満ちているのだからそこから逃れることはできない。せめてうまくやれ、と。
私はそうは思わない。
世界は物語だけでできているわけではない。人生そのものは物語ではないし、物語的に生きることがつねに善いわけでもなく、美しいわけでもない。私にとって、人生は、様々なことが巻き起こり、出会いと別れがあり、楽しい会話や鮮やかな瞬間があるが、それらを、物語の形で語りたいとは特別思わない。
物語的ではない生を私は生きられている。
(以下、略)


あるいは積極的に、より率直に自己開示できる学生(素直で屈託なく、表裏のない人物)を採用したい、という企業の思惑もあるのでしょうか?
それでも感動的な物語、美しい青春の物語を求めるなら、そこに「美しい物語を作り出すためのノウハウ」を提供する有償のサービスが入り込むかもしれません。あるいは学生たちに嘘話を語るよう強要する結果になるだけで、「表裏のない人物」の採用どころか「上手に嘘を語れる人物」を採用してしまいそうです
上記の記事はほんの一部であり、興味のある方は現代ビジネスのウェッブサイトで続きを読んでください
さて、この記事に自分が興味を抱いたのは、精神分析が「語られない物語」を探求する技法だからです。ペラペラと一方的に語られる話の大部分は精神分析の対象ではありません。それは意識され、言語化された物語であり、そこにおよそ分析すべき事象が含まれていないからです
精神分析は言語化されない、いわば無意識の中にある物語(多くは断片的で統合されておらず、辻褄の合わないエピソード)を解釈します
たとえば精神分析についての小咄に、「患者たちは分析家に嘘をつきたくて、時間を割き、高い料金を支払いやってくる」というものがあります
フランスの精神分析家ジャック・ラカンはあらかじめ分析の時間を定めず、患者と接していました。フロイトは分析の時間を50分と定め、それ以上長くても短くともダメだと主張し、弟子たちに分析の時間を厳守するよう求めていたのですが、ラカンはこれを否定します
ラカンは入ってきた患者の顔を見るなり、「今日の分析は終わりだ」と言って追い返すのもしばしばでした。こうした扱いに憤慨して分析を止めてしまう患者もいた一方、ラカンに話を聞いてもらうには自分が何を語るべきなのか考え、次の週にラカンの許を訪れる患者もいました。つまり患者があれこれ自身について考え、語るべきなにものかに思いを巡らせる時間をラカンは分析の時間だと考えたわけです
そこで求められるのは感動の物語ではありませんし、美しい物語でもありません。繰り返し夢の中に現れる些細なエピソードだったり、過去の記憶の断片だったりします
甲子園という物語
青春の物語の代表とされるのが高校野球の全国大会でしょう。まだ何者でもない高校生が、ヒーローとして駆け上がる舞台です
甲子園で活躍し、注目され、称賛され、プロ野球選手への切符を手にする…といった成功譚が約束されている(実際には約束されていませんが)場には、監督やコーチからの励まし、チームメイトとの友情、母子家庭でも野球を続けさせてくれた母親など、いくつもの美しい物語が絡んでおり、メディアはその感動のストーリーをこれでもかと記事にします
他方で、その裏側には語られない、語るべきではない物語も潜んでいるのですが、メディアはこぞって無視します
あのイチローでさえ、「高校時代には戻りたくない」と語り、桑田真澄も「殴られて野球がうまくなったりはしない」と述べているほどです
ただ、世間が甲子園に感動を求め続ける限り、青春の美しい物語としてこれからも語り続けられるのでしょう
むしろ、「高校野球なんてただの感動ポルノだよ」と言う者が白い目で見られるだけです
最後に
よりよい就職先を求めるのは学生の側として当然です。しかし、そこのエントリーシートやら自己分析シートやらが加わり、さらに面接では美しい物語が求められるとか、随分と妙な方向へ進んでいるように思います。が、この方向へのシフトがますます進み、より歪な形になっていくのでしょう。おかしいと感じる人たちがいても、簡単には止められませんし後戻りもできません。大変な時代だな、と呟くのみです
引用した記事の末尾でも自己分析に否定的な見解が述べられています
精神分析をかじっている者からすれば、自己分析など不可能であり、せいぜい自身に都合の良い、ある程度納得できる嘘を捻出するだけの行為にすぎません

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