「嫌われた監督」(文藝春秋刊)の書評 その2

落合博満について鈴木忠平が書いた「嫌われた監督」の書評は2022年3月に当ブログに書きました。そしてまた、取り上げます
立浪和義が監督として、「3年連続最下位」という誰にも真似できない記録を達成し、あらためて監督業の難しさというものを示しました
対して、落合博満は監督8年間で4度のリーグ制覇、1度の日本シリーズ制覇という対象的な位置にいます。おそらく今でもなお立浪和義は、自分がなぜ落合のように結果を残せなかったのか、理解できないままではないかと思われます
長年スター選手としてプレーし、さらには野球解説者を務めていながら、それでも野球という競技への理解が落合に遠く及ばないと、立浪和義は悟れないのでしょう
さて、前置きはここまでにして、今回は文春オンラインに掲載された映画監督西川美和氏による書評を取り上げます。実に本質をえぐった鋭い視点で書かれた書評であり、これほど優れた書評に接したのが久し振りです。つい嬉しくなって、誰かに紹介したくなりました


映画監督・西川美和が、ベストセラー『嫌われた監督 落合博満は中日をどう変えたのか』を読む
(前略)
記者という人たちは、取材し、書くことを生業としている。彼らは書かなければ生活できないし、こと対象が芸能人やプロスポーツの選手であれば、あんただって書いてもらってなんぼだろ、という持ちつ持たれつの認識もあるだろう。だから、取材対象の私生活の領域にも踏み入り、機嫌をとり、挑発し、時に傷をえぐることにも迷いはないのがプロだとも思っていた。その一方で、相手の有名性にかこつけてところかまわず奇襲し、スキャンダルや敗北に我先にと群がる姿を見ると、何か人間の浅ましさの煮凝りのような気がして、目を背けたくなることもある。
マスコミ嫌いと言われたイチロー選手が、記者の言葉の揚げ足をとって、その不勉強や観察不足をあげつらう姿は、まるで無責任な観客の私自身の無知と半端な好奇心を咎められてもいるようでハラハラしたが、あれを「取材者との真剣勝負」や「愛情」と解釈するべきか、シンプルな「敵意」や「軽蔑」と捉えるべきだったか。意地が悪いようだが私はやはり後者の配分が多いのではないかと想像していた。常に問いかけられる側の人は、答えた言葉が人質に取られたように一方的に持ち去られ、時に文脈を無視したかたちで世間にばら撒かれ、意図せず第三者を貶めることになったり、自分という存在を測られたりしてしまう。なぜ質問者の思考のレベルに下げられなければならないんだ。俺を晒すつもりなら、お前も同じだけ晒されてみろ。そんな気持ちが、生まれてもおかしくはない。長年注目を浴びてきたトップアスリートが、メディアに対して退屈な決まり文句を繰り返すか、喧嘩腰になるか、あるいは無言のまま拒否するか、そんな傾向になっていくのを見ながら、無理もない、と思うことも多くなった。きっと彼らは、書かれてしまった自分自身の言葉に、幾度も傷ついてきたに違いないからだ。
けれど鈴木さんの「私」が対象に近づくプロセスには、「知る権利」などという言葉を安易に振りかざすのとは程遠い足取りの重さがある。落合邸のガレージに初めて立った時のあの長々とした煩悶。自分は伝書鳩だ、青二才だ、末席の記者だ、全てはあらかじめ決められている、これは自分の意思じゃない、競争やお追従笑いもしたくない。眠い、鞄が重い、でも記者として、行かねばならない。行きたくない――端正で硬質な筆致なのにもかかわらず、読んでいるうちに私の中には笑いさえ込み上げてきた。スポーツ新聞の担当記者といわれる人たちの中にも、こんなにも普通人らしい屈託やためらいがあるのか。その取材者としての恐れや足踏みのようなものがあるせいで、読者を対象に一足飛びには近づかせない。「そんなものじゃないだろ」と、記者自らが読者に対してバリケードを張っているようにも読める。この態度が、私には信じられた。
(以下、略)


読みの鋭い人、人の内心を汲み取れる人というのはこんな感覚なのだな、とあらためて感じられる文章です
取材する側、取材される側、それを読む側、の3者の立場を考慮して書かれています
特に、イチローを比較対象の例として挙げたのが秀逸で、ほとんどの方は「なるほど」と思ったはずです
ただ、何度も名前を挙げて恐縮ですが、立浪和義は決して「なるほど」とは口にしていのでしょう。三遊間を抜ける打球が増えた=立浪の守備の衰えを指摘したくだりについても、立浪なら「そんなことはなかった」と気色ばんで反論するのでは?
あくまでも自分の考え、自分から見た野球、自分の意識の上に立ち現れた世界のみに執着し、それ以外の可能性をまったく想像できない人間だからこそ、3年連続最下位という同じ失敗を3度繰り返してしまったのだろう、と思うのです。不勉強とか観察不足というのは末端の話で、本質的な認識論の違いなのでしょう
鈴木忠平が立浪和義を取材したなら、どのような文になるのか、それはそれで興味が湧きます
以前、東京都知事選挙に関連して、石丸伸二が語る内容が理解されないのは、既存の永田町の政治談義とは違う文法で語っているからだと指摘しました。新しい政治は新しい言語で語られるべきだと思うからです
同様に新しい野球というのは、既野球中継で解説者の語る既存の野球論から生まれたりはしないのであり、新たな野球論から生まれるのでしょう。落合博満の野球観が既存の野球解説者による野球観とは著しく異なっており、そこに新たな野球が生まれる可能性があったと考えられます。しかし、球団はそれを望まず、野球界もそのような新しい野球の出現を忌避した…のが残念です

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