高島鈴の「呪術廻戦」論を読む(1)

200以上の国・地域から約1500万人のファンが投票したアニメアワード各賞の発表イベント(クランチロール主催)が2022年にあり、「アニメ・オブ・ザ・イヤー(大賞)」に選ばれたのが「呪術廻戦」でした。つまり、世界のアニメファンからもっとも支持された作品、という栄誉を受けたわけです
高島鈴という女性ライターがこの「呪術廻戦」を論じた文を筑摩書房のウェブサイトに掲載していますので、今回、取り上げます
自分はこの高島鈴氏を知りません。詳しい経歴は伏せられているようです
いつものように論文からの引用は赤字で、自分のコメントは黒字で表示します


第2回 罠の外を知っているか?――『呪術廻戦』論(1)
●『呪術廻戦』の立ち位置
少年漫画において、社会正義をいかに語るかは常に重要な論点である。子どもたちが戦う漫画であれば特にそうだ。なぜその「敵」と戦う必要があるのか? なぜ「敵」に立ち向かうのが「少年」たちなのか? これらを説得力をもって語るには、戦う理由を社会の中に位置付ける必要があるはずである。
ティーンエイジャー、あるいはそれ以下の読者に空想の冒険を提供するために、子どもを主人公にした戦いの物語を描くこと自体に異議はない――筆者自身、苦しい思春期を少年漫画によって救済されたかつての子どもである。だが子どもの個人的な正義に物語を牽引させるなら、それがどんなに世界を「よい」方向へ変革するものであったとしても、その革命が他者に向けて開かれていくことはないだろう。「子どもが戦うならば、社会の大多数を構成する大人はその間何をしているのか?」という疑問への応答がない作品、誰か一人の正義を中央に据えて描かれる世界像は、たくさんの人びとを世界の周縁へ追いやり、不可視化する。少年漫画というポップカルチャーに社会変革の可能性を見出そうとする本連載の立場に照らせば、それは到底魅力的とは言えない表現である。

何者かとも戦いを描くというのは少年漫画の王道です。そこにはいくつもの理由・事情が存在します。1つの答えとしては、読者(こども)が戦いを求めているからです。こどもが自身の内なる戦いを投影できるような物語を希求し、そこに没入することである種のカタルシス(満足)を得ようとする…と考えられます
戦う相手はアメリカ陸軍でも中国人民解放軍でもよいのですが、国際問題になるため妖怪や呪霊、吸血鬼など政治問題化しない対象が選ばれます

このような視点を以て芥見下々『呪術廻戦』(集英社)を読むとき、奇妙な感触を得る。『呪術廻戦』の世界は、子どもの個人的な正義とその敵だけで完結してしまうような視野の狭さを感じさせない。なぜ子どもまでが戦場にいるのか、そしていかに戦場が苦しい場所であるかも含めて、丁寧に描かれている。誰か一人の正しさが前景化することもない。そこに社会は「在る」。
しかし同時に『呪術廻戦』における社会の存在感は、わざと希釈されている、、、、、、のだ。同作における戦いの論理は、「社会正義」と徹底的に距離を取る。それだけでなく、各キャラクターがそれぞれに抱えた個人的な「正しさ」についても、相対化し続ける。そう描かねばならない理由があって、そうなっているのである。

呪術高専の生徒である虎杖、伏黒、釘崎はそれぞれ個人的な理由で呪術師となる進路を選択肢ており、社会正義実現のため呪術師を目指したわけではありません
そして、それは少年漫画やライトノベルによくある、「偶然巻き込まれた」形でもなく、自らの意志で苛烈な世界に踏み込んで行く展開を指摘しているのだと思います

●あらかじめ折り取られている未来
(呪術廻戦のあらすじが言及されていますので省略)
以上のあらすじだけである程度察せられるかと思うが、同作は極めて過酷な状況から幕が上がり、先の見通しもあまりに暗い。明るい未来の獲得を目指して戦うのではなく、主人公は最初から決定された死に向かって走り出すのだ。『呪術廻戦』は虎杖が内面的に「成長」する物語であるという意味ではビルドゥングス・ロマンとして読めるが、一方で「成長」したその先は、あらかじめ折り取られている。未来は「暗い」のである。

報われない呪術師という仕事。論文では七海建人を引き合いに語っています。呪術高専の生徒だった七海は仲間の死を経験し、呪術師ではなく証券会社へ就職にします。そこで口八丁手八丁でクズ株を客に売りつける仕事をしていたのですが、行きつけのパン屋のアルバイト従業員に取り憑いていた呪霊を払ったのを契機に、呪術師として出戻ります。誰かのために呪いを払うという、「不確かなやり甲斐」を選択したわけです
が、彼も呪術師の生き様の先には「報われない死」があるだけ、と承知しているのです

●「意志」というまやかし
さて、ここで疑念が湧く。呪術師たちがあくまでも自分の意志として「理由」を立てるとき、そこでは本人が高専に至るまでの環境要因が捨象されてはいないか。
すでに説明したように、多くの呪術師はごくわずかな選択肢、あるいは選択肢がない状況で呪術師になる。虎杖の事情は言わずもがな不随意であるし、伏黒の場合は幼少期に親が蒸発したため、自身が呪術師になることを担保に、自身と姉の分の生活資金を高専から得ていた。釘崎は釘崎で、呪術高専進学以外に東京に出るための資金を用意する手立てがなかった。念を押すが、誰一人(程度の差はあるにせよ、呪術師以外もそうだろうが)自らの意志だけで何かを選べる人間などいない。みな環境に左右されながら、自分なりの合理性――他者から見れば合理性とは映らないかもしれない考え――に基づいて呪術師になる。
これらの背景があるというのに、呪術師は呪術師である「理由」を個人の意志として説明せねばならない。ここで意志は、明らかに呪術師に至るまでの道の複雑な他律性を切断するためのまやかしとして働いている。ではなぜまやかしが必要とされるのか?
哲学者の國分功一郎は、意志と責任の関係について以下のように述べている。
無からの創造としての行為などあり得ないというのは、行為へと至る因果関係は複雑に絡み合っていると同時に、それはいくらでも遡っていけるということです。にもかかわらず、意志を無からの創造、行為のピュアな源泉と考えているとしたら、われわれはそのとき、単に因果関係を見ないようにしているだけです。あるいはその因果関係を無理矢理にどこかで切断しているのです。
[…]本当は「意志」があったから責任が問われているのではないのです。責任を問うべきだと思われるケースにおいて、意志の概念によって主体に行為が帰属させられているのです。

因果関係の切断は虎杖悠仁のセリフにも現れています。「宿儺は全部喰ってやる。後は知らん」、「自分(テメェ)の死に様はもう決まってんだわ」と、ある意味、吹っ切れたように言ってのけます。伏黒は、「オレは不平等に人を助ける」と言い、全員を平等に救うという公益性を真っ向から否定し、それが結果として彼の自己肯定に結びつきます
この因果関係の切断⇒「責任は取らん。後は知らん」というブッタ切り感が、「呪術廻戦」が読者や視聴者の共感を得た理由の1つかもしれません
長くなったのでここで一旦、切ります。次は高島鈴の論文の続き、「全員を平等に救うという公益性」と、それに納得できない自らの思いとの板挟みで壊れてしまった夏油傑に言及した部分を取り上げます

呪術廻戦 渋谷事変/ 懐玉・玉折は別れ話/クレジットでは五条が一番上だけど監督は○○を描きたかった?


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