「中二病でも恋がしたい!」論と思春期考察
当ブログではさまざまなアニメーション作品を取り上げた研究論文を紹介してきました。ここしばらくは事件報道ばかりにかまけ、中断していましたが、再開します(裁判官も夏季休暇を取得するため、8月下旬まで公判が休みとなるためです)
昨日の「SLAM DUNK」に続き、本日は大阪公立大学大学院現代システム科学研究科の川部哲也教授の論文、「『中二病でも恋がしたい!』から見た思春期心性との関わり」を取り上げます
川部論文は『涼宮ハルヒの憂鬱』に次ぐ作品としてこの『中二病でも恋がしたい!』を読み解こうと試みています
ここでは作品自体は既知のものとし、説明は省きます
いつものように論文からの引用は赤字で、自分のコメントは黒字で表示します
『中二病でも恋がしたい!』から見た思春期心性との関わり
(論文2ページ)
皆さんは「中二病」という言葉をご存じだろうか?思春期を迎えた中学2年の頃にかかってしまうと言われる恐ろしくも愛すべき病で、形成され
ていく自意識と、夢見がちな幼児性が混じり合っておかしな行動をとってしまうという、あれだ。
昨日まで、週刊少年誌オンリーだったやつが、いきなり英語の原書を読み始めてみたり、コーヒーの苦みも何もわからないのに、ブラックにこ
だわってみたり、自分には特別な力があると信じて、オカルト系に思いっきり倒れこんでみたり…。
さて、この少年も中学時代は見事なまでの中二病だった。自らをダークフレイムマスターと名乗り、決めぜりふは、「闇の炎に抱かれて消ろ!」
(勇太が闇の魔法使いの姿で叫ぶシーン、そこから一転、現在それを思い出して悶絶するシーンとなり)、「ああ…恥ずかし恥ずかし恥ずかし恥ずかし恥ずかし,忘れろ忘れろ忘れろ忘れろ忘れろ!」
このように、思い出すだけでも悶え死にそうになるくらい、恥ずかしい病なのである。
これはアニメ第1話冒頭で語られるナレーションで、中二病を定義したものです。ただ、中二病はダークファンタジーの模倣だけにとどまらず、ツッパリ中学生がグループを作り、「おれたちは最強だ」などと称して他校の生徒に喧嘩を売るもの同類で、過剰な自己表現欲求=何者かになろうとする衝動全般を指すものと解釈できます
本作アニメでは小鳥遊(たかなし)六花の中二病全開の日常と、その背景にあった彼女の葛藤をクラスメイトである勇太が理解し、受け入れ、中二病を克服?する過程を描きます
六花の中二病は突然の父親との死別を受け入れ切れず、ファンタジーへ逃げている(かのよう見える)もので、身内はそんな六花を持て余している描写があります。六花の姉、十花は現実を受け入れようとしない妹を批判します
本作アニメでは小鳥遊(たかなし)六花の中二病全開の日常と、その背景にあった彼女の葛藤をクラスメイトである勇太が理解し、受け入れ、中二病を克服?する過程を描きます
六花の中二病は突然の父親との死別を受け入れ切れず、ファンタジーへ逃げている(かのよう見える)もので、身内はそんな六花を持て余している描写があります。六花の姉、十花は現実を受け入れようとしない妹を批判します
(論文4ページ)
十花にとっては「現実」を受け入れることが「大人」なのである。一方で、勇太はそこに割り切れない気持ちがあることを表明する。この勇太の反論の言葉は、六花が現実をどこかでわかっているのだが、どうしても受け入れることができないのだという六花の心情を深く理解しているものである。
「中二病」を生きている者は、完全に現実に背を向けているのではなく、現実をわかってはいるのだ、でもそれを受容できないのだ、という理解は、思春期心性を理解する上で不可欠な姿勢と思われる。
このような理解に至ることができたのは、勇太自身がかつて「中二病」を全力で生きた経験があり、その自分の思春期心性に今でもアクセスできるという要因が大きいと思われる。相手の「中二病」を理解することができるのは、自らの内にある「中二病」と深く関わることによってであるといえる。
本作アニメの秀逸なところは、単なる中二病の荒唐無稽なバカ騒ぎとして描くのではなく、思春期の特性をしっかり見据え、小鳥遊六花の内面に焦点を当てているところでしょう
そして中二病の先輩にして六花の恋愛対象となる勇太を配置し、六花が中二病を克服するか、中二病を引きずって生きるか、あるいは第三の選択をするか、明確でないものの可能性を示唆しているところが刮目に値します
(論文5ページ)
六花を夜の海辺に連れ出した勇太は、ダークフレイムマスターとなり呪文を詠唱する。その瞬間、そこに「不可視境界線」が出現した。勇太は六花に告げる。
「これが不可視境界線だ。あの光がお前を見ている。伝えるがいい。お前の思いを。お前がずっと言えなかった思いを。」
六花には、光に向けて自分の思いを叫ぶ。その時、六花には確かに父親の姿が見えたのである。もちろん、不可視境界線も父親の姿も、ファンタジーである。しかし「中二病」によるこのファンタジーの力がなければ、大切な喪の作業を2人で成し遂げることができなかったに違いない。この物語は、このファンタジーのもつ力を強力に肯定し、誰もが持つ夢想する能力であると結論づけている。ラストシーンのナレーションにて、「それは、生まれてから死ぬまで、人の中で延々と繰り返される悲しくて、恥ずかしくて、愛おしい、自意識過剰という名の病。自分という名の、避けては通れぬ営み。そう。人は一生、中二病なのだ」と物語が結ばれる。
第1期放送分のアニメのラストシーンです。父親の死を受け入れるためさまざまなファンタジーの力を借り、勇太という協力者もいて、相応の時間を費やし「喪」の作業を終わらせたところで第1期は終わります
心の整理(服喪)はその人が欲する形で、望む形で行うのが良い、とされます。他者がああしろ、こうしろと押し付けるのは逆効果であり、却って未達の思いを残し、引きずってしまう…と言われます
(論文10ページ)
このシリーズでは、「中二病」という非現実的な「設定」を生きる現象を切り口として、思春期心性の展開を描いた。アニメ1期では、「中二病」を現実に対抗するための大切な心の働きと位置づけ、「人は一生,中二病なのだ」と肯定した。しかしアニメ2期では、その「中二病」を続けるか否か、つまり現実を取るか非現実を取るかという厳しい二者択一を迫る局面を取り上げ、「中二病を捨てて大人になる可能性」を示した。そして、この2つの別々の結論を踏まえ、映画2作目において「中二病をどのような心理現象として位置づけるのか」という問題に真正面から取り組んだ。そこでは、アニメ2期のような二者択一に陥ることなく、さなぎがやがて羽化するように、いつか来る思春期の終わりを待つ、という第三の選択肢が提示された。それは、単に問題を先送りにしているというのではない。いつか来る人間の成長・変化を見届けるという強い覚悟に裏打ちされた、人間関係の継続である。
物語の終わらせ方というのは存外、難しいものです。一番簡単で雑なやり方は主要な登場人物が死んでおしまい、という形です
あるいは少年ジャンプ漫画のように「オレたちの闘いはこれからだ」と、続編があるかのような匂わせで幕切れ(連載終了)にする形もあります
「中二病でも…」はアニメ2期と、さらに劇場版もつくられていますが、実際のところアニメ1期で終わらせてしまった方が良かったのではないか、と自分は思います。特に2期の途中から話が重くなり、つまらなくなった気がします
どれだけ楽しい物語でも終わりはあるわけで、すぱっと終わらせた方が美しいのであり、下手に続編など作らない方がよいと思うのもしばしばです。今回紹介した川部論文は2期、劇場版アニメも肯定的な評価を下しており、それが上記の引用部分として現れています
まあ、思春期というのは永遠のテーマですから、どのようにでも描けますし、どう描いたところで掴みどころがない(そうなじゃない感)、があったりします
ある意味、続編を作りすぎてグダグダになってしまった『涼宮ハルヒ』シリーズへの回答として、『中二病でも恋がしたい!』が提示されており、思春期の高校生の姿を端的に切り取って見せた作品として評価したいものです
こうしたアニメ作品を提供できるのは世界の中でも日本だけであり、中国や韓国では絶対に作れないジャンルです
「中二病でも恋がしたい!」ダイジェストPV
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