映画『THE FIRST SLAM DUNK』試論を読んで

京都大学の合田典世准教授の論文『借りは即返さねばならない― 映画『THE FIRST SLAM DUNK』試論 by「シロート」』が面白かったので取り上げます。合田准教授はアイルランド文学(ジェームズ・ジョイスなど)の専門家のようですが、劇場版アニメについてもなかなか鋭い考察を披露しています
いつものように論文からの引用は赤字で、自分のコメントは黒字で表示します


借りは即返さねばならない― 映画『THE FIRST SLAM DUNK』試論 by「シロート」
(論文3ページ)
1.原作/映画で「借りを返す」
スポーツ漫画の中心的興味は、当然ながら、勝敗の帰趨にある。「速攻」命のバスケットボールという競技を扱う『SLAM DUNK』においても、マイナス(失敗=失点)をいかにプラス(成功=得点)に転じるか、原作の言い方を借りれば、「借りは即返す」(19 巻 #260)ことがひとつの伴となる。
「やられたらやり返しゃいーんすよ……3 倍にしてね」(19 巻 #253)とは山王のエース、沢北のセリフだが、ページを繰ってすぐ―見開きの右ページ最初のコマ―になんらかの驚きが来る、というリズムに乗って、読者は大小さまざまな「借りの返し」を目撃する 5)。一つだけ例を挙げれば、山王戦で背中を負傷した花道が、左ページで「いけえ沢北―っ‼」との声援のなかダンクシュートを決めようとする沢北から、ボールを「返せ…」と取り返すインパクト大のシーンも、次のページで右ページを丸ごと使って描かれる(20 巻 #272)。
この「借りを返す」というテーマは、ただ点の取り合い、ボールの奪い合いだけでなく、心理的側面にも当てはまる。


かつて自分が『THE FIRST SLAM DUNK』について言及した際、これを「自分が何者であるか探求する物語」だと形容しました
作品が投げかけてくる物語の本質は「桜木花道が桜木花道であるという確信を得るための物語」であったり、「赤木剛憲が赤木剛憲という自分自身を発見する物語」であったり、「流川楓が流川楓以外の何者でもないと気づく物語」であり、同時に観客に向かって「では、おまえは何者なのか?」と問いかけてくるストーリーだ、というのが自分の見解です
なので、「借りを返す」という原作中のセリフに着目し、「借りを返す物語」だと読み解く大胆さには正直、驚かされます


(論文3ページ)
たとえば山王戦ラストの流川と花道のコンビプレイは、それまでの 2 人の愛憎相半ばする「ライバル」(1巻 #3)関係が「絆」に昇華される、原作最大のカタルシスであり、いわば両者間のわだかまり=「借り」が返された瞬間でもある。そのプレイでの花道の「左手はそえるだけ」(20 巻 #275)のジャンプシュートも、「シロート」である彼の地味な特訓が活かされた「伏線回収」だ。何より、作品のクライマックスで、(特に初期の)花道が無闇に憧れる「スラムダンク」ではなくジャンプシュートが決め技となるのは、彼が「バスケットマン」(2 巻 #18)として「借りを返し」た、つまり「成長」したことを端的に物語っている 。


以下、論文は作者であり監督でもある井上雄彦がなぜ宮城リョータにスポットを当てた構成にしたのか、宮城リョータの何をどう描きたかったのかを考察しているのですが、そこは割愛して先へ進めます


(論文10ページ)
「映画を早送りで観る人たち」19)が当たり前のように存在する現代では、こうした心性への理解が、ものづくりの大前提となるだろう。実際、上に見てきたような、試合的にも心理的にも「借りを返す」ことに伴うカタルシスは、「伏線回収」の快楽でもあり、3DCG を駆使して作られた高「解像度」の試合映像、そしてその映像との相乗効果を上げる音/音楽は、近年ではサブスクの普及で敬遠されがちな劇場での鑑賞の「コスパ/タイパ」を最大限に上げている。
本映画が「現代的」欲望に十分に応えるものだとして、しかしそれだけでは大ヒットにつながらなかったであろうこともまた確かである。というのも、その本質的な魅力は、こうした「わかりやすい」=言語化に適した領域を超えた「わかりにくい」ところにこそあると思われるからだ。それは一言で言えば、「言語」「意味」に回収されない絵の力であり、アニメらしさではなく映画的「リアル」を志向した絵作り(と芝居)の果たす役割は、「わかりにくさ」とは無縁に見える本映画において、おそらく想像以上に大きい。


論文を読んでいて「?」と思ったのが以上の行です。「借りを返す」という筋立てが「伏線回収」となり、観客の満足度を高める…というのは判ります。しかし、次の段落の、「『わかりやすい』=言語化に適した領域を超えた『わかりにくい』ところにこそある」から「おそらく想像以上に大きい」と書かれているところの意味が自分には理解できませんでした
合田准教授は「アニメ」の表現技法と「映画」の表現技法を別物であるとの前提で語っているのだろうと推測するわけですが、自分には明確な区別がつきません。いわゆる「アニメ」の表現技法もまた「映画的」であると思うので
ただ、井上雄彦監督がこの作品を映像化するにあたり、いわゆるアニメのギャグ的表現を排し、リアルで濃密な表現(試合を中心とした)を前面に出そうと企図したのは理解できます


(論文10ページから11ページ)
佐藤亜紀の言葉を借りれば、「芸術の快楽とは、表面の快楽であり、芸術の問題は、最終的には、表面の問題に帰着する」(33)。アニメなら動く絵、文学なら言葉、といった固有のメディア性、「意味」や「深層」に回収されない表層こそが、芸術の芸術性を担保するのである。
今一番「稼げる」コンテンツであるアニメが、わかりやすさ、無意味の意味化への欲望に冒され(すぎ)ているとの批判は多いが、そういう言説の横溢は、逆説的に、観る/批評する側の限界、わかりやすさ=言語化しやすい領域しか見(え)ない「シロート」の限界を明かしているとも言える(『SLAM DUNK』で、自分のプレイ能力が上がるほど、他人の能力への査定力が上がるのと同じく)。わかりやすいものばかりが受けることへの懸念の声は多いが、おそらくそこには「わかりにくい」「言語化しにくい」訴求力も潜在しているはずだ。その(おそらくは膨大な)無意味=言語化しづらい領域にこそ、ヴィジュアル・コンテンツの命がかかっているといっても過言ではない。要するに、「わかりやすい」だけでも、「わかりにくい」だけでもだめで、両者が共存することで作品の「爆発力」(20 巻 #267)が生まれるのである。


流川がドリブルで山王のディフェンスを抜こうとして抜ききれないシーンがあります。山王のディフェンスの固さを理解した流川は、ドリブルで抜くように見せかけながらもパスを選択します。これで山王の選手は流川が守備の固さに困り果て、パスせざるを得なくなったと解釈してしまいます。しかし、パスは山王の選手をそう誤認させるためのフェイクであり、次に流川はドリブルで鮮やかに山王のディフェンスを切り裂いて見せます
「言語化しやすい/言語化しにくい」、「わかりやすい/わかりにくい」と記述されている論文の解釈として、流川のプレーを例に挙げてみました
わかりやすいプレーだけではバスケットボールは成り立たないのであり、わかりにくいプレーによって相手の意表をついたり、相手に守備すらさせない展開に持ち込もうとします。速攻だったりトリッキーなパスであったり、攻撃に転じた相手からすかさずボールを奪うスティールだったり、と
さて、湘北チームのメンバーが山王戦での激闘の中で成長する様が映画で描かれていますので、そこが観客の満足度を高め、コスパ的にも「お得感」を付与しているのでしょう。また、物語世界が映画の尺を超えて、その先にまで広がる(高校卒業後の流川や宮城、桜木の活躍…といった描かれていない世界に思いを馳せる)ことで、タイパ的にも「儲け」た気分に浸れるのかもしれません
なお、論文の中では『THE FIRST SLAM DUNK』をアカデミズムが取り上げようとしない点を指摘し、同時公開の新海誠作品や宮崎駿の『君たちはどう生きるか』に比べ、言及されないと嘆いています。そこは何とも仕方がない気がします
大学という象牙の塔にいる人達が桜木花道のように、「シロートだからよ」と開き直るのは難しいのでしょう
言い足りない点が多々ありますが、本日はここまでにします

(関連記事)
中国で「SLAM DUNK」がウケた理由 自己像探求
中国ではなぜ「SLAM DUNKが作れないのか」という記事
「スラムダンクと反日主義」 韓国紙コラム
「SLAM DUNK」は日本帝国主義の野望 韓国メディア
映画「スラムダンク/THE FIRST SLAM DUNK」公開
「SLAM DUNK」の劇場版アニメ化
「中二病でも恋がしたい!」論と思春期考察
https://03pqxmmz.seesaa.net/article/504232906.html
中国の漫画・アニメ業界の「ヒーロー待望論」
「中国アニメは天才に頼らず日本を超える」との記事
中国アニメは質・量とも向上、という記事
いま一度、映画「ルックバック」を語る
日本アニメ「ルックバック」 上海国際映画祭で激賞