「三鷹事件」(昭和24年)再審請求認めず
「三鷹事件」は1949年(昭和24年)、日本がまだ占領下にあった中で起きた国鉄三鷹駅での電車暴走事件です。当時、国鉄の人員整理に反対する共産党員でもある国鉄労働組合員によって引き起こされた犯罪、として捜査が進められたものの、結局は共産党員ではない竹内景助元死刑囚(元運転手)による単独の犯行として起訴されます。1審東京地裁での公判の中で、竹内死刑囚は「自分が1人でやった」と発言しています。1審判決は無期懲役だったのですが、検察はこの判決を不服として控訴。東京高裁で死刑判決が下されます。竹内死刑囚は一転、無罪を主張しますが最高裁も死刑判決を支持。竹内死刑囚は拘置所に収監中、脳腫瘍のため病死しています
東京の旧国鉄・三鷹駅で1949年、無人の電車が暴走して6人が死亡した「三鷹事件」をめぐり、電車転覆致死罪で死刑が確定した竹内景助・元死刑囚=45歳で病死=の再審請求について、最高裁第二小法廷(三浦守裁判長)は、元死刑囚の長男の特別抗告を棄却した。15日付の決定。元死刑囚の裁判をやり直さない判断が確定した。
確定判決によると、国鉄で運転士などを務めた竹内元死刑囚は49年7月15日夜、三鷹駅の車庫から電車を発進させた後、1両目の運転席から飛び降り、暴走・脱線した電車で6人をはねて死亡させた。
元死刑囚は捜査段階で単独で犯行に及んだと自供したが、公判で無実を訴えるなどした。一審・東京地裁は元死刑囚の単独犯行と認め無期懲役としたが、二審・東京高裁は死刑を言い渡した。最高裁は55年、裁判官15人による判断で8対7の僅差(きんさ)で上告を棄却し、死刑が確定した。元死刑囚は再審請求中の67年に東京拘置所で病死したが、長男が2011年に再び再審請求していた。
(朝日新聞の記事から引用)
この事件では関係者のほとんどが既に亡くなっており、いまさら新たな証言が得られる可能性はありません
1審で竹内死刑囚がなぜ「自分が1人でやっや」と主張したのか、不可解なままです。竹内死刑囚の主張は「自分がやった」という単独犯のものから、「複数犯だった」との供述、無罪の主張とコロコロ変遷しており、最高裁まで7度も変わっています。憶測すれば、複数人の国鉄労働組合員が犯行を計画し、実行したもので、竹内死刑囚が1人で罪を被ったのではないか、とも考えられます。列車転覆罪は死刑もしくは無期懲役の重罪なのですが、戦後には幾度かの大規模な恩赦があり、死刑囚が無期懲役に減刑されたり、無期懲役が有期懲役に短縮されるといったケースもありました。なので、無期懲役の判決を受けてもそのうち恩赦があって早く刑務所から出られる…との思惑があったのか?
あるいは労働組合側から竹内死刑囚に罪をかぶるよう命令があり、それに逆らえない弱みを握られていたとか、さまざまな可能性が考えられます
他方で、国鉄の人員整理が進まず手を焼いていたGHQが共産党員の仕業に仕立てるためやった陰謀、という説も根強く支持されています
ただ、GHQの陰謀だとして、なぜ竹内死刑囚が「自分が1人でやった」と供述する必要があったのか謎です
戦後のこの時期、国鉄総裁が失踪した後に轢殺体で発見されるという下山事件、線路のボルトが抜き取られ列車が故意に転覆させられた松川事件といった不可解な事件が連続しており、何とも言えないもやもや感が残ります
作家松本清張がこうした戦後の事件を取り上げた「日本の黒い霧」を書き、ベストセラーになりました。今でも松本清張による「GHQの陰謀」説を信じている人も多くいます。松本清張は下山事件、松川事件を取り上げていますが、三鷹事件には言及していません。ただ、松本清張の一連の主張には基本資料の読み間違いや、自説に都合の良い証拠は取り上げるが不都合な証拠は無視するといった「操作」が指摘されており、信用に欠けるとの評価もあります。小説を書くためならそれでもよいのでしょうが、ノンフィクションでそれをやられると問題です
(関連記事)
8人を強姦殺害 大久保清事件から50年(3)
8人を強姦殺害 大久保清事件から50年(2)
8人を強姦殺害 大久保清事件から50年(1)
5人殺害も恩赦で死刑を免れた少年 小田原事件(昭和24年)
少年死刑囚の話 小松川事件(昭和33年)
死刑執行 犯行時19歳だった関光彦
藤沢ストーカー殺人(昭和57年) 藤間静波死刑囚
住友家令嬢誘拐事件(昭和21年)
未解決の誘拐・失踪事件 庄山仁君失踪(昭和44年)
未解決の誘拐殺人 城丸君事件(1984年)
少年誘拐ホルマリン漬け事件(昭和32年)
「黒い看護師」殺人の吉田純子 死刑執行