長野銃撃事件 「死刑回避濃厚」と書く記事

2023年5月、長野県中野市で4人を殺害したとして起訴された青木政憲被告について、弁護人もなかなか会話ができず苦労しているようです
検察は鑑定留置(精神鑑定)を実施後、刑事責任能力を問えると判断し起訴したのですが、弁護人は再度、精神鑑定を求める方針だと報じられています
検察の判断としても、完全に責任能力を有していたとの前提なのか、あるいは心神耗弱が認められるものの責任能力を完全に喪失していたわけではないとの前提なのか、現時点では不明です
殺人事件を独自に取材し、記事を書いている青沼陽一郎というジャーナリストがいます。彼は「死刑回避の線が濃厚だ」と昨年6月の段階で書いています。まだ精神鑑定を実施する前ですから、いくらなんでも早すぎでしょう


死刑回避の線が濃厚な長野4人殺害事件、だが精神疾患疑われる息子になぜ銃を
長野県中野市で、女性2人が刺され、駆けつけた警察官2人が猟銃で撃たれて死亡した事件。あまりに残虐な殺害方法で4人も殺害したとなると、極刑はまず免れない。ところが、発生から1週間が過ぎて、逮捕された青木政憲容疑者(31)の供述内容や人物像が明らかになるにつれ、「死刑回避」の可能性がますます高まるばかりだ。
「こんなはずではなかった」という不満があるとき怒りとなって爆発することが
(中略:事件の経緯)
発生から間もなく、私はこの事件の容疑者の極刑が回避される可能性について解説した。逮捕直後の青木容疑者が、こう供述していると伝えられたことが理由だった。
「被害者の女性に悪口を言われたと思って殺した。射殺されると思ったので警察官も殺した」
そもそも、悪口を言われたところで、相手を刺し殺そうと決意するだろうか。思い込みなら、なおさらだ。
それに、パトカーで警官が駆けつけただけで「射殺される」と考えるだろうか。抵抗せず、自首すれば済む話だ。そこの発想に飛躍がありすぎる。
このような猟奇的な殺人を犯す犯罪者には共通する点がある。そのひとつが、慢性的な欲求不満だ。それも、自分の恵まれない境遇に対する不満、「こんなはずではなかった」という欲求不満を溜め込みながら、抑うつ的に孤立した生活を送っている。それがある時、激しい怒りに置き換わり、他者への攻撃となる。それは、私がこれまで取材してきた通り魔事件や無差別大量殺害事件にも共通する。
理想と現実のギャップに悩んでいたのか
報道によると、青木容疑者は地元の小中学校に通い、高校は県内の進学校を卒業。東京の大学に進み、そこで食事付きの個室の寮で生活をはじめた。ところが、他大学の学生もいる環境に馴染めなかったようだ。やがて東京・目黒のアパートで1人暮らしをはじめるも、大学を中退。その時に母親にこう漏らしていたという。
「大学でみんなに『ぼっち』とばかにされている」
“ぼっち”とは「独りぼっち」のこと。当初は「大学時代にいじめにあった」と書く報道もあったが、そもそも、周囲から「ぼっち」と呼ばれて認識していたのなら、それは独りぼっちではないはずだ。どうやら環境に馴染めず孤立していくことを独りで悩んでいた様子がうかがえる。
もっとも、誰もがあらゆる環境の変化や人間関係に合わせられるようなものでもない。どうしても環境に馴染めずに、ついていけない人間は出てくる。それは仕方のないことだとしても、青木容疑者にとって問題となるのは、ここに理想としていたはずの自己像とのギャップが生じたことだ。
(以下、略)


慢性的欲求不満
青沼氏は「慢性的な欲求不満だ」と指摘しています。要するに大学へ行き同世代の仲間と和気あいあいの生活をするつもりが、馴染めないまま孤立して忍従を強いられる状態となり、理想から乖離した現状に不満をつのらせ⇒被害妄想に囚われるようになり⇒承認欲求が満たされず不満が爆発した、と言いたいようです
ただ、「慢性的な欲求不満」との表現はおそらく司法の場でも、精神医学の場でも通用しない表現でしょう。青沼氏はこの「慢性的な欲求不満」との表現によって事件の真相を見抜いた心境なのでしょうが
そして次に続く文章では、「私がこれまで取材してきた通り魔事件や無差別大量殺害事件にも共通する」と書きます
当ブログで繰り返し書いているのですが、「あの事件もこの事件も同じ共通項があるから同じ事件だ」という括り方は自分がもっとも嫌うものです。なぜ、「あの事件もこの事件も共通点がある」と断じる必要があるのか、自分にはさっぱり理解できません
少なくとも心理臨床の場では、「Aさんの悩みもBさんの不安も共通項があるから同じ問題だ」などと扱ったりはしません。あくまでもAさん個人の体験した悩みであり、Bさん個人の抱える不安として扱います。Aさんの悩みに対し、「皆さん同じ悩みを抱えているんですよ」と言ったところで何の解決にもならないからです
本件の場合も、青木容疑者に向かって「大量殺人の犯人は皆さん、同じ悩みを抱えているですよ」と言ったなら青木容疑者は激怒するでしょう。「オレの悩みを他の奴らと一緒にするな」と
認識論として
少しばかり逸脱しますが、哲学の中に認識論というジャンルがあります。その認識論的思考を整理したのが現象学という学派です。大雑把に言うと、自分という意識の上に世界がどのように立ち現れているか、を考察するアプローチをとります
これを事件に当てはめると、長野銃撃事件は青木容疑者という個人の意識の上に立ち現れた唯一にして独自の体験です。他の無差別殺人犯と青木容疑者は同じ意識を共有しているわけではないので、青木容疑者の体験と他の無差別殺人犯の体験を「同じもの」だと決めつけるのは誤りです
なので事件を考えるなら、あくまで青木容疑者個人の意識の上でどのような経験が積み重なり、どのような屈折や挫折を経て犯行を思い立ち、実行したかを考察しなければなりません。他の事件といくつか共通項があったとしても、それはあくまで偶然の一致であり、結果論です。偶然であるところの共通項から何らかの因果関係を導き出そうというのは、あまり有益な試みには映りません
構造主義的な考察
現象学的なアプローチと異なる考え方として、構造主義的な考察の方法があります
これは無差別殺人が起こり得る社会的な構造がある…との前提に立ち、その論理的な帰結として長野銃撃事件を考えようとするものです
若者世代に起こりがちな孤立化、人間関係の希薄さ、社会での不遇感を暴力によって告発し解決しようとする偏った思考などなど、いくつもの要因を挙げ、現代社会の病理に結びつけようとする考え方です
列挙したように、無差別殺人にありがちな性向、資質、環境や負因がキー概念として並びますので、共通項を数え上げるのが大好きな人なら飛びつきそうです
ただ、何でもかんでも社会の構造のせい、だと決めつけるわけにはいきません。長野銃撃事件のような無差別殺人は圧倒的にアレケースであり、社会への不満を抱えているからといって誰でも彼でも無差別殺人に走ったりはしません
ですから、社会に不満を抱えながらも無差別殺人に走る者と、そうでない者の差異がどこにあるか、共通しない部分に目を向け考察しないと、杜撰な決めつけに陥ってしまう危険があります
ここが「共通項を挙げたがる人」を自分が警戒する所以です
死刑回避説
上記の青沼氏の記事を読むと、責任能力に問題があったので起訴はしても死刑を回避、と結論ありきで書かれているように思えます
そこは裁判の展開次第なので早々と予想するのはどうか、と思ってしまいます
もちろん、飯塚事件のように2人殺害で死刑判決が下される場合もあれば、大口病院事件の久保木被告のように3人殺害しても無期懲役という場合もあり、犯行形態だけで死刑と決めつけるわけにはいかないのが現実です。本件が裁判の結果、死刑を回避したなら、4人を殺害しても死刑にはならないとの判例を残すわけで、これはこれで問題です。そのときは裁判官が死刑を回避するもっともらしい理由付けをするのでしょうが

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