「風の谷のナウシカ」 クシャナという生き方

宮崎駿の漫画版「風の谷のナウシカ」は自分の愛読書であり、同時に精神分析的な思考を磨くための道具でもあります
今回は中央公論に掲載された鈴木涼美氏の記事から引用します。鈴木涼美氏は慶応大学在学中にAV女優をしており、日本経済新聞に入社し記者となった後、AV女優だった過去を自ら明かして注目された人物でもあります。なお、日本経済新聞社を退職したのはAV女優だった経歴を隠していたのが問題になったから、ではありません。小説「ギフテッド」は第167回芥川賞候補作となってもいます
父親は鈴木晶法政大学教授で、その著書「フロイト以降」(講談社現代新書)は精神分析の概説書としてよくできた本です
鈴木涼美氏は中央公論に「夜を生き抜く言葉たち」と題する読書エッセイを連載しており、今回引用するのもその連載の1つになります

死に過剰な意味と恐怖を見出すことから少し離れて生きていく(宮崎駿『風の谷のナウシカ』を読む)
(前略)
「ナウシカにはなれずとも同じ道はいける」
現実主義で汚れることも暴力も否定できないクシャナと、絶望することができない高潔なナウシカの関係は微妙です。メーヴェに乗って華麗に空を飛ぶ穢れなきナウシカは、「なんという戦争!! いかがわしい正義すらカケラもないなんて」とクシャナのやり方に反発しますが、汚れることを引き受けるクシャナは「手を汚すまいとするお前のいいなりになるのは不愉快だ」と、ナウシカの助言の一部を受け入れる条件に彼女に闘うことを強います。自分なりの正義の方向性を持つクシャナですが、現実味がないように見えるナウシカの高潔な精神を目の当たりにして、これまでの迷いなき汚れ方が変化するようになります。「ナウシカお前はお前の道をいくがいい それも小気味よい生き方だ」「私は私の血みどろの道をいく 親兄弟と殺し合う呪われた道をな・・・・・・」と互いの違いを尊ぶだけでなく、戦争がいよいよ進んでいくにつれ、気づけば惨状の目前で死んだ部下達の体温を悲しみ、子守歌を歌う、まさに神聖なナウシカのようなことをするようになるのです。ただし、その直後に「だが二度と私にはできぬ いや真似たくもない」「猛々しい怒りを燃やしつつ侮蔑と憎悪ではなく・・・・・・悲しむなど」と、ナウシカの精神性で自身が生きることは否定するのでやはり微妙です。
自分の選択や選びとったものの中での足掻き方を浄化し得なかった夜の姫時代の私は、汚れを引き受けるクシャナの態度こそ美しいのだと思っていましたが、それでも漫画を読み進めるにつれてナウシカが汚れてはいけない必然性も感じました。幼い私が距離を感じた高潔すぎるナウシカは、漫画の中では一度真っ向から否定されます。意識の中に現れた「虚無」に、「足元を見ろ 自分の足元を見ろ」「死者の中にはお前が殺した者もまじっているんだ」「お前は愚かでうす汚い人間のひとりにすぎないのさ」と指摘されるのです。ただしナウシカは虚無に指摘されるまでもなく、自分が人間という呪われた種族であることを受け入れており、腐海に住み、世界を浄化する蟲の方がよほど美しいと認めます。そして一度は「わたしも森になろう・・・・・・」と生きることを諦めるような物言いになります。映画を観た時には、おじさんの妄想の中に生まれた完璧な少女としか思えなかったナウシカの高潔さや自己犠牲は、この生への執着のなさ、逆に言えば死への恐怖のなさに裏付けられたもののように思えました。
「きれい――死後の世界がこんなだって知っていたらもっと平和に生きられるのに」というナウシカの心の声が端的に示すように、ナウシカは愚かな人間の代表として死ぬことを特に恐ろしいことだと考えていません。命を捧げて世界の浄化に一役買えるのであれば、喜んで引き受ける。これは幼い私には絶対に俗人には辿り着けない自己犠牲、利他性の境地のようなものに思えていたけれど、むしろその利他性は、死への過剰な拒否反応を克服していれば必然的なものに感じられます。それは、「死にたい」なんて言葉を簡単に発する夜の歓楽街の人々とは全く異質の、むしろ真逆のメンタリティです。ナウシカの中でも「もろい人の心は深淵の前に砕けてしまう」「闇を見る者を闇もまたひとしく見るからだ」と描かれるように、人は死への過剰な意味づけから自由になったときではなく、生きることの恐怖や闇に堕ちることの恐怖から逃れたい、と考えるときに死の誘惑にかられます。

引用から省略しましたが、この記事の前半部分はAV女優時代の回顧譚です。が、なぜAV女優時代を前面に出そうというのか、自分には理解できません
彼女はAV業界に身を置いていましたが、女優の名前だけで作品が売れるような人気アイドルではなく、いわゆる企画物AVで複数名の女優が登場する中の1人、という立ち位置だったと自分で書いています。それが彼女の自慢なのか、トラウマなのかは不明ですが、後半部分にも「夜の世界の住人」などなどの表現が登場します
それはともかく、「風の谷のナウシカ」を取り上げた書評や論文など多く読んできた自分としては、物語の脇役であるクシャナに注目している鈴木氏の記事がある意味新鮮に映りました。ほとんどの書評や論文はナウシカに注目し、論じるばかりであり、クシャナは注目度が低いからです
なので、上記の記事はもう少しクシャナとナウシカを対比させ、論じれば刮目すべき内容になったのかもしれません。そうならなかったのが残念です
もちろん宮崎駿は最初からクシャナを重要な登場人物として設定してはおらず、単なる脇役の1人だったのでしょう。しかし、物語の後半からクシャナの存在、行動は大きくなり、話を進捗させる重要な要素となります。
ある意味、クシャナの存在によってナウシカが際立ち、ナウシカの存在によってクシャナの人物像がより陰影に富んだものになるという相互補完的な関係にさえなっています
この辺りの関係については、当ブログの過去記事でも取り上げていますので、関心のある方は一読ください

「風の谷のナウシカ」 王道と倫理

さて、鈴木氏の記事に立ち戻ると、中年男性が思い描くであろう理想の美少女ナウシカへの反感や嫉妬、苛立ちなどをもう少し具体的に記し、対してのクシャナという悪に染まることも厭わない現実主義者的な生き方への共感を書いてほしかったと思います
彼女は漫画版ナウシカの物語を以下のように受け止めたと書いています

漫画版ナウシカはアニメ版のように何かの勝利で幕を閉じません。むしろ、答えを出さないこと、正義を定義しないことをエンディングとしています。「人間の汚したたそがれの世界で私は生きていきます」とかつて宣言したように、ナウシカは人間の愚かさと世界の汚れを引き受けて愛することを選びます。これは見方によっては方向性を示すことの放棄のようでもありますが、少なくとも、夜の闇にとどまるだけでなく、夜の闇を消滅させることでもないところに、自分の生きる場所を探そうとしていた疲れた私には心強いものでした。たとえ彼女が解決を断念したのだとしても、腐海の中を彷徨っている気分だった若者のうちの1人にとって、腐海と共に生きねばという宣言は、自分が悪であり誤りであり敵であるとみなされるような場所で嫌われるのを待って息を顰めて亡びるのだと考えないで済む答えでもありました。

滅びるか生き残れるか、そのぎりぎりの淵にとどまり続けようとするナウシカの決意を、鈴木氏が我が身に置き換えて実感し、納得したのでしょう。記事の最後は次のように締めくくられています

18歳になり20歳になり、夜の世界の淵にいて、これから身体を売ることもあれば、だまし騙されることもあれば、自分の価値が億のようにもゼロのようにも感じる日もあれば、夜の闇の中で最高に楽しい時間も最低な気分も味わうだろう女の子たちに、そういう世界で持っていたら力が湧く言葉を、本の中から紹介してきたこの連載も今回で終わりです。人生はままならないし、世界は荒唐無稽だし、夜の闇は深いけれど、言葉をポケットに隠し持っていれば、どんなに闇が深くとも、多分、なんとかなるものだと私は信じています。

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