無差別殺人犯は何事も他人のせいにするのか?
プレジデントオンラインの記事に「無差別殺人の実行犯は何かにつけて『人のせい』にするのか…」と題する、戸谷洋志関西外国語大学准教授による記事が掲載されていましたので取り上げます
まず、この記事は戸谷准教授の著書「親ガチャの哲学」(新潮新書)からの抜粋によるもの、だと明記されていますので、それを記しておきます
戸谷准教授は哲学が専門であって、犯罪心理学や精神医学の専門家ではありません。もちろん、専門外だから無差別殺人犯について語るのは大間違い、と決めつけるつもりはありません。専門外の人の見解が思いがけない視点を提供してくれる場合もあります
が、結論から言うと戸谷准教授のこの記事は、ハズレの内容でした。どこがハズレであったか、記事からの引用の後に書きます
なぜ無差別殺人の実行犯は、何かにつけて「人のせい」にするのか…自分の人生を「自分のもの」と思えない理屈
自分の人生を「自分のもの」と思えない人たち
自分の人生を自分の人生として引き受けられない。それは、言い換えるなら、自分の人生が他者に決定されたものとして理解される、ということです。そしてここから二つの帰結が導き出されます。
一つは、自分の人生に「功績」を感じられなくなる、ということです。
たとえば「私」が厳しい受験戦争に勝ち抜き、難関校に合格したとしましょう。多くの場合、「私」はそれを自分の功績だと思いたくなります。そのとき「私」は、自分の力で、自分の意志によって努力し、その結果として大学に合格したと考えようとするからです。言い換えるなら、「私」の強い意志がなければ、大学に合格できなかっただろう、と見なすことを意味します。
ところが、「私」が自分の人生を引き受けられないとき、大学に合格できたのは「私」の意志によるものではなく、「私」が置かれていた環境によるものだと理解されます。すなわち、両親が教育熱心であり、進学校や予備校に通わせたり、参考書をいくらでも買ったりできるような経済力を持っていたからこそ、「私」は大学に合格できた――そのように考えることになります。
恵まれた環境のパワーに比べれば、「私」の意志が果たした役割など、ほんのささやかなものでしかありません。つまり、大学に合格できたのは「私」の功績などではなく、両親の手柄になってしまうのです。
(中略)
「秋葉原通り魔事件の実行犯」の人生観
自暴自棄型の犯罪と、自分の人生への無力感、そしてそれに基づく無責任さの関係は、秋葉原通り魔事件の加藤のうちにも見出すことができます。
事件の背景には加藤の極端な価値観があり、そしてその価値観は母親からの影響によって形成されたものでした。その自己認識が、彼にとって何を意味していたのかを考えるために、彼が獄中で執筆した著書『解』における証言を見てみましょう。そこでは、何かにつけて「人のせい」にするという自らの性格について、次のように述べられています。
何故このようなものの考え方になったのかと考えて自分の人生をさかのぼってみましたが、最初からそうだった、としか考えられません。このような考え方に変わったきっかけになる出来事等は無く、こうして自己分析するまでは、この考え方は当たり前のこととして、何の疑問も持っていませんでした。
とすると、これは幼少の頃の親、特に母親から受けた養育の結果だということになりそうですが、このように書くと、人のせいにしている、と批判されるのでしょう。
つまり、自らの母親のもとに生まれてきた、ということが、彼にとって自らの性格を決定する唯一の出来事だったのです。だからこそ彼は、自分がなんでも「人のせい」にするということは、自分のせいではないと訴えます。
他に選択肢が無い私が母親のコピーになっていくのは、私の責任ではありません。確かに、その一択を拒否する手段はあります。母親を殺すか、私が自殺すればいいことです。
なぜ「死刑になる」とわかっていて、犯行に及んだのか
加藤は、自分が「母親のコピー」になることは、自分の責任ではないと考えています。当然のことながら、仮に彼が言う母親からの教育がすべて事実であったとしても、それによって彼の刑事責任が相殺されることはありません。そのことは彼も理解していたはずです。
そもそも彼は、犯した罪によって自分が死刑になることを予見していました。それでも犯行を思いとどまることができなかったのは、なぜなのでしょうか。その背景には、上記の無責任さに基づく、自分自身への関心の希薄さが見え隠れしています。
(以下、略)
戸谷准教授の見解
まず、戸谷准教授は複数名の無差別殺人犯に直接聞き取り調査を実施し、この著書を書いたとは思えません(執筆の経緯は知らないので自分の憶測です)
秋葉原通り魔事件の加藤智大死刑囚についても、彼の著書「解」を読んだ上で書いているにとどまり、彼と意見交換はしていないのでしょう
ただ、直接面会したり、手紙のやりとりなどせずに無差別殺人犯について書く、という選択肢もあるわけで、それ自体が問題ではありません
それでも以前に当ブログ取り上げた片田珠美著「攻撃と殺人の精神分析」(トランスビュー刊)の方が、個々の殺人犯を取り上げ、いわゆるケース研究に近い内容で分析には確かな手応えがありました。片田氏はパリ第8大学という、ラカン派精神分析の総本山で学んだ精神分析家であり精神科医で、いわば専門家です。その本と、「無差別殺人の精神分析 (新潮選書)の2冊を読めば、戸谷准教授の指摘する内容が表面的な解釈にとどまっており、無差別殺人犯の心の内奥に迫っていないのが如実に分かってしまいます
戸谷准教授はこの2冊を読んだのでしょうか?おそらく読んでいないのでは。先行する研究例があるのですから、参考にした方が良いわけで
無差別殺人犯といってもさまざまな生育環境、性格や人格があるわけで、ひとまとめに「親ガチャ」に失敗した人たちと括るわけにはいきません
あるいは「自分の人生を自分自身のものだと自覚できない人たち」と括るわけにもいかないはずです
それは少年犯罪が起きるたびに、「第2の酒鬼薔薇聖斗だ」とか、「神戸連続児童殺傷事件と同じだ」と決めつけるのと同じくらい愚かな行為でしょう。この「◯◯事件と同じ」という判断は、およそ専門家・臨床家ならしません
ところがジャーナリストは往々にして過去の事件になぞらえたり、同一視しようとします。その方が記事を書きやすいからです
加藤智大死刑囚のケース
加藤死刑囚の場合は公判を重ねる中で、「母親との関係に根本的な問題があったのだろう」と多くの人から指摘されたところです。しかし、加藤死刑囚自身は「掲示板が荒らされたから(無差別殺人を思い立った)」と動機を語っており、母親が原因だとは認めようとしませんでした。1審で死刑判決を受けた後か、最高裁で死刑が確定した後なのかは不明ですが、「解」と題した著書を拘置所内で執筆するうちに、上記の記事にあるように「母親との関係に原因があった」との認識に至ったのでしょう。もし犯行前に「母親との関係」に思い至っていれば、加藤死刑囚は秋葉原でトラックを暴走させたりせず、母親を殺害しに行ったと思われます
加藤死刑囚の父親は高卒で銀行に就職し、支店長にまで出世した人物ですが、母親は高卒の夫を嫌悪し軽視し息子たちには一流大学に進学してもらいたいと欲していました。そのためビシバシ息子を鍛えたのですが、加藤被告が高山の自動車短大という地元の人も進学をためらう短大に進学しています
母親の期待に沿えなかったという自責の気持ちはあったのでしょうし、親への当てつけという気持ちもあったのかもしれません。が、受験の失敗がただちに無差別殺人に結びついたわけでもなく、彼なりの人生を生きようともがき、足掻いて挫折したと経緯を考慮する必要があります
加藤死刑囚と母親との関係については、当ブログで過去に言及していますので、関心のある方はそちらを御覧ください
事件の読み方
無差別殺人の犯人には3つや4つの共通点が見られるのかもしれません。しかし、その3つか4つの共通点を重視するあまり、その他無数にある相違点を無視して語るのは大間違いです。むしろ数多く存在する相違点の方が重要なのかもしれません。少なくとも無差別殺人犯を一括りにして「同じ人達」と扱う(確かに無差別殺人をやらかしたという意味では同じカテゴリーに分類できるのですが)のはあまりに危ういやり方です
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