「海辺のカフカ」 比喩表現の先にあるもの
自分の関心事の1つが村上春樹研究です。時折インターネットを検索し、村上春樹について書かれた論文やブログの記事、メディアの報道などを収集しています。そのいくつかを当ブログで紹介したり、自分のコメントを付したりしており、これはこれで読書とは異なる味わいを体験できる作業です
今回は松川美紀枝氏による論文を取り上げます。論文執筆時は尾道市立大学(初めて知りました)に在職されていたのですが、現在の所属は不明です
なかなか着眼点も面白い論文であり、もっと読まれてもよいのになと思います
いつものように論文からの引用は赤字で、自分のコメントは黒字で表記します
現代における比喩の構造とその効果 -村上春樹『海辺のカフカ』における直喩表現に着目して-
(前半の修辞学的な解釈はおそらく興味が湧かない内容だと思われますので省略し、5ページ目の「村上春樹の直喩表現」から引用します)
論文5ページ
第二章 村上春樹の直喩表現
村上春樹は現代作家の1人である。その作品については文学的な研究もなされているが、文体・文章など日本語学的な研究も少なくない。とりわけ村上の比喩表現はその手法を、「独特」「ユニーク」などと多くの研究者によって評され、研究が進められてきた。しかし、そのほとんどが例えば「どうしてこのような表現にしたのか」という作者の糸を探るものであるなど、比喩表現の例を一つずつ検証しているものであった。今回稿者は村上の比喩、なかでも直喩表現における効果のメカニズムについて考察していきたいと思う。
その前に一つ確認しておきたいのが、稿者が考察する上で例として挙げている箇所は、村上が比喩と意識して表現している箇所かどうか、という点である。前章でも延べたように、話し手の意識、これもまた比喩の前提条件である、その表現一つひとつについて、作者である村上がその意識を明言したものはない。しかし、本稿で取り上げる『海辺のカフカ』については、その後読者の感想・疑問に村上自身が答えたものを編集した雑誌『少年カフカ』が存在しており、その中にこの問題に対する興味深い返信がいくつかある。
単に奇をてらっているわけではなく、読者の意表を衝こうとしているでもなく、単語の組み合わせ方によって読者の想像が広がる余地を確保しようとしているのだ、と村上自身は表明しています
ただ、そうであるにしても、従来の日本文学には類を見ない比喩が展開されているのは事実です
この村上の立場はどの返信でも一貫したものであり、例えば「~はどのような意図で書かれたのですか」といった内容・文体(表現)に対する読者の率直な質問にも、基本的には「もう少し考えてみてください」と読者の思考を促し、「◯◯はこういう意図ですよね」と断定して作者の同意を求める読者には「そういうつもりで書いてはいない」と否定している。
村上の返答に「はぐらかされた」と感じた読者はともかくとして、明確な答えを与えない戦術は確かに有効です。質問をすれば必ず明確な答えが提示される…というのが現代の学校教育ですが、それでは学校教育が単なる答え合わせの場と化してしまいます
明確な答えはどこか小説の先に、読者の想像の先にあると示唆し、思考と想像を楽しむのが読書の醍醐味でしょう
以降は村上の直喩がどのような構造をしており、読者の想像力を刺激する仕掛けになっているのか、具体例を上げて説明されます
関心のある方は論文をPDFファイルでダウンロードし、読んでください
論文16ページ
第三章 進化する比喩
第一章では比喩、そして直喩の表現の効果について述べ、更にどこで「生きた表現」としての線引を行うことができるか、比喩のもつ表現としての無限の可能性はどこまで広げることができるかという疑問を投げた。そして続く第二章で村上春樹の『海辺のカフカ』を取り上げ、具体的に例を挙げ直喩表現について考察してきた。
まず「生きた表現」の線引をどこで行うか、この問題に関して村上が『海辺のカフカ』の中に残した、こんな言葉がある。
「世界はメタファーだ、田村カフカくん」【49章】
前章の最後でも述べたように、村上の基本的な考え方として、世界に真理は一つしか存在しないというわけではなく、それは人間一人ひとり違うものであり、また違って当然だというものがある。そして作中主人公にヒントを与える人物として登場する大島が、物語の最後に残したこの個どばは、作品全体を通して何度も使用された言葉である。
以前にも「海辺のカフカ」について当ブログで取り上げた際にも、この「世界はメタファーだ、田村カフカくん」を持ち出しました。「海辺のカフカ」の中で自分が一番好きな部分です
元ネタはゲーテの「万物はメタファーである」ですが、大島が小説のラストでカフカ少年にそう告げる場面、シチュエーションがあってこそ、「生きた表現」になったのであり、これが別の場面、別のシチュエーションで発せられた言葉であるなら「生きた表現」にはなり得なかったはずです
比喩(それが直喩であれ隠喩であれ)を活かすには、ふさわしい場面・状況が必要だと考えられます
それがないとただのうざい表現、言い回しで終わってしまい、読者の想像力を刺激するには至りません
世の中には村上春樹の作品が嫌いだという人がいて、その多くは読まず嫌いだろうと推測するのですが、中には読んで嫌いになったという人もいるのでしょう。その原因が村上独自の言い回し、比喩が「鼻につくから」という理由もありそうです。具体的に嫌う理由を調べたわけではないので、自分の憶測ですが
話を戻して、松川論文では「世界はメタファーだ、田村カフカくん」との表現が何を意味するのか、意図するのか、直接解明しようとはしていません。それは論文5ページにあるところの、従来の研究者の仕事だからです
ただ、松川氏の見解としては『稿者はこの言葉が物語の構成としてだけでなく、物語に使われる文章表現全体にも関わっているのではないか、と思うのだ。つまり、読者(受け手)にとっては(あるいは、ある読者にとっては)物語全体がメタファー(この場合、何かを代用したものの意)であり、その仕掛けに気づくか気づかないかは読者一人ひとりに委ねられているということだ。読者にその裏を気づかれた表現は「生きた表現」となり、逆に気づかれず見過ごされてしまった表現は「死んだ表現」となる』と記述されています
なので、村上春樹の小説がつまらない、面白くないとの感想を抱く人は、その仕掛けに気づかないまま読み過ごしてしまっている、とも考えられます
「海辺のカフカ」は大変興味深い小説で、かつさまざまな読み方が可能な小説です。解釈の方法がいくつもあり、読み返すたびに発見があります。なので、また機会があれば取り上げます
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