長谷正人の論文「宮崎駿試論」を読む

12月16日にNHKが放映した「プロフェッショナル 仕事の流儀」で宮崎駿監督が取り上げられていました。映像の中で宮崎監督が水彩画で描いていたスケッチを撮られており、そこに「巨神兵らしくものに乗ったナウシカの姿があった」と、インターネット界隈で話題になっています。即ち、宮崎監督が「風の谷のナウシカ」全編をアニメーション化する気ではないか、との推測が生じたからです
劇場版「風の谷のナウシカ」は原作漫画の3分の1ほどのストーリーをやや強引にまとめたものです。劇場版アニメを制作した時点で原作である漫画版のナウシカは未完でしたから、劇場版「ナウシカ」の中途半端なできに宮崎駿が不満を抱いていた、と考えるのは妥当でしょう
「新世紀エヴァンゲリオ」の庵野秀明監督は以前から、「漫画版ナウシカ全編をアニメーション化させてほしい」との願望を口に出していましたが、宮崎駿は承諾していません。自分で手掛けたいとの思いがあったため、と考えられます
そうした情報はともかく、本日は長谷正人早稲田大学教授による論文「アニメーションという思想一宮崎駿試論ー」を取り上げます
論文本文からの引用は赤字で表示します


アニメーションという思想一宮崎駿試論ー
https://waseda.repo.nii.ac.jp/record/2020/files/81076_50.pdf
宮崎駿を論じようとする人々の視点は・大きく二っに分類することができると患う。第一の視点は、宮崎駿の作品のなかから「思想」や「メッセージ」を解読しようとするものである。例えばそれには、宮崎作品は「人間と自然との共生」というエコロジー思想を訴えたものだといったようなジャーナリズムによる粗雑な解説から、稲葉振一郎の『ナウシカ解読』という書物のように、『風の谷のナウシカ』のアニメ版(84)とマンガ版(82-95)の物語を詳細に比較しながら、そこに宮崎の深淵な倫理観やユートピア思想を読み解こうとするものまでが様々に存在する。
これに対して第二の視点は、そのような宮崎の高蓬な思想ではなく、宮崎作品がいかにアニメーションの娯楽作品として優れているか、っまり、いかに秀逸に登場人物の行動を生き生きと描き、いかに魅力的なキャラクターを造形し、いかに心地よい飛翔の光景を見せてくれたかを論じようとするものである。このような議論もまた、多くの映画評論家やアニメーターなどによって数多く行われてきた。

以下、論文では稲葉振一郎による宮崎駿を思想的に解読しようとの試みにおいて、劇場版「ナウシカ」を批判し漫画版「ナウシカ」を絶賛する手口を批判していきます
長谷教授によれば、漫画には漫画の話法があり、アニメーションにはアニメーションの話法があるのだから、漫画版と劇場版を並べてどちらが優れているかを論じるのは妥当なやり方ではない、との考えです

たとえば哲学・倫理学の書物としてはそれなりに優れたものであろう稲葉振一郎の『ナウシカ解読』は、エンターテインメントとしてのアニメーションやマンガを論じた書物としては、何とも奇妙なものにしか見えない。なぜなら稲葉が、マンガ版とアニメ版の『ナウシカ』の違いを、もっぱら物語や台詞やメッセージの違い(意味の違い)のみを手掛かりにして読み解こうとしているからだ。彼によれば、マンガ版『ナウシカ』は、アニメ版における「あからさまな終末論的構図、素朴なエコロジスム」といった思想的弱点を、宮崎自身が批判し、乗り越えるために書かれものだと言う(むろん、宮崎自身がそのように明言しているのだから間違いないのだが)。だからアニメ版よりマンガ版の方が優れた倫理的・政治的「メッセージ」を備えた作品なのだと、ここで稲葉は一貫して主張する。
しかし私はこの比較と優劣のっけ方にどうしても馴染むことはできない。
(中略)
アニメ版は二時聞の枠のなかで、悲劇的なドラマとして、映像をどのようにダイナミックに構成するかに重点が置かれ、マンガ版はあえて粗っぼい絵でも自分の思想的課題を延々と論理的に探求することが中心になっている。にもかかわらず、稲葉のようにそれら二っを思想的にどちらが深いかという後者の基準だけで比較するのは、やはり奇妙である。それではマンガ版が優れているという結論が出るに最初から決まっているようなものだ。

ここから先はその主張が汲み取りにくいのですが、長谷教授は漫画版であれアニメ版であれ、宮崎駿の思想は等しく読み取れるのだから、無理に優劣をつける必要はない、と結論付けています

私は基本的には、このような映像表現のダイナミクスによって宮崎アニメの面自さを論じる第二の立場を支持している。しかしにもかかわらず、こうした視点からの宮崎アニメ論のこれまでの成果に微妙な物足りなさを感じてしまうのも事実なのだ。こういう第二の立場の論者が、逆に宮崎駿のエコロジーなどをめぐる「思想」をあまりに軽視してしまうからである。とりわけ多くのアニメ関係者の議論は、TVシリーズ『未来少年コナン』(78)や『ルパン三世カリオストロの城』といった初期宮崎作品における躍動感あふれるアニメ表現を賞賛して、『ナウシカ』や『もののけ姫』(97)などに顕著に見られるような宮崎駿の真面目なユートピア観や世界観を、そうしたアニメ的躍動感を鈍化させた要因として否定的にしか論じない傾向にある。それは確かにそうなのかもしれない。
しかしそれでは結局、稲葉氏らの第一の視点と同様、表層のエンターテインメント性と深層に読み取られるべき思想という単純な二元論の枠組みを保持してしまうことになってしまう。だから逆に私たちは・第一の視点と第二の視点をっなげて・宮崎アニメの表層的な映像表現それ自体のなかに稲葉が深層に見つけ出そうとした倫理観・世界観を見出すべきだと思うのだ。

ようやくにしてこの論文のテーマ、あるいは目的が提示されます
映像表現としてのダイナミズムや娯楽性を作品に織り交ぜるアニメーション監督宮崎駿と、理想を重んじる思想家・表現者としての宮崎駿を同じ次元でとらえ、語ろうとする試みこそがこの論文のテーマのようです

(論文4ページ。植物に覆われた建造物こそ、宮崎駿のシンボリックなイメージとの主張が展開される)
有機物と無機物の緊張関係としての宮崎アニメ作品。しかし彼の作品を理解するには、さらに、その二つの項を媒介する第三の項として「機械」の存在を考慮に入れなければならないだろう。
人工的無機物ばかりに覆われた超文明社会は、『コナン』のインダストリアのように、人問の生き生きした生活を不可能にしてしまう死」の世界だ。だが反対に『ナウシカ」の腐海のように、「有機物」ばかりに覆いっくされた自然環境もまた人間の文明生活を不可能にしてしまう恐怖の世界にすぎない。つまり宮崎作品において「人間」が生き生きと生活するためには、無機的なものと有機的なものの中間としての「機械」が必要になってくるのである。「機械」は、生命を持たないという意味では無機的なものでありながら、生命をもっているかのように「動く」という意味では有機的なものと言えるだろう。
だから宮崎ワールドにおける「機械」は、無機的なものと有機的なものの間の対立を調停する役割を果たしている。

従来の宮崎駿論に見られる「自然」対「機械文明」といった図式ではなく、無機物と有機物の調停役としての「機械」を考えるという、独自の視点が提示されます
さらにその「機械」こそアニメーターの仕事を示唆しており、

(論文11ページ。アニメーションを生産する、生産者としての体験・あり方から宮崎駿の思想は生まれた、との解釈が提示される)
つまり私はこう思うのだ。第一の視点の論者が宮崎作品に見出したエコロジー思想やユートピア観は決して宮崎がアニメーション作品を作ることと無関係に、もともと個人的に抱いていた思想を表現したものではないと。つまりそれは、アニメーション作品を作るという機械的労働そのものと関わって生みだされた思想なのである。アニメはあくまで機械的に製作されなければならない。だからそれは最初から無機的なものの世界であるという条件を課されている。しかし同時にアニメーターはその不可能な条件のなかで、自分が描いた人聞や生物たちに、何とか生き生きとした生命感を与えようとする。ここにアニメーターの表現における機械的な制限との葛藤が生まれる。この葛藤をうまく乗り越えることができれば、自分たちの書いた静止画は生命感を与えられるし、失敗すれば無機的な動きしか残されない。
実は宮崎作品の内部におけるエコロジカルな世界とは、このようなアニメ表現の臨界点における緊張感を反映したものだったように思われる。

従来の宮崎駿=エコロジスト(自然大好きなトトロのおじさん)という前提から論じるのではなく、アニメーション制作の生産者というあり方が彼の思想を形作ったという考えは興味深いものです
スタジオジブリを率い、アニメーターに仕事と報酬を与えて形作られた宮崎駿の王国(彼はそこの独裁者でもあるわけですが)が、ユートピア観の具現化だと指摘しており、それは空想の中も曖昧なユートピアなどではないと
しかし、そんな宮崎駿の王国も決して安泰ではなく、永続できるものでもありません

(論文13ページ。消費されるものとしてのアニメーションを提供し続けるその先に何があるのか?)
こうして宮崎駿はある時から、「アニメーションという思想」をうまく表現することができなくなってしまったように思う。私には何だか彼が、自分の作ったアニメ作品が与える社会的影響にまで責任を取ろうとしているように見える。っまりジブリ印のイメージやキャラクターによって埋め尽くされた宮崎ワールド(ジブリの森の美術館として具現化されたイメージ世界)を、ナウシカにとっての腐海のように窒息させられそうな環境として引き受けっっ、なおそのヴァーチャルなイメージ消費空間の向こう側に何か別のユートピア空間を見出そうとしているように見える。
その試みの多くはどこかで失敗して単なる自己肯定に終わっているように私には思われるが、しかしこの宮崎駿の退行的な戦いを、他人事のように簡単に批判してもならないだろう。

愛知県長久手市にジブリパークが開園しています。ジブリの商売を担当する鈴木敏夫が推進役なのだろうと思われます。ただ、そこにあるのは前期の宮崎駿作品やジブリ作品の世界で描かれたファンタジーの空間であって、こどもたちが楽しめる娯楽提供の場です
つまり「火垂るの墓」や「風立ちぬ」のような戦争を彷彿とさせるモニュメントや催し物はありません。ビジネスとしてはもちろん正解なのでしょう。が、そこに宮崎駿の思想の切れ端を見出そうというのは難しい気がします。ただ、上記の論文の趣旨を踏まえるなら、アニメーション作品の二次利用、三次利用としてビジネスを展開し、収入を得て、その資金を新たなアニメーション作品作りに回すというモデルとしてはあり、なのだと思います
「君たちはどう生きるか」の次はどうするつもりなのでしょう。冒頭に書いたように、「風の谷のナウシカ」の全編をアニメーション化するという無謀な企画に挑むのか、気になるところです

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