村上春樹「街とその不確かな壁」をどう読んだか
村上春樹の新作「街とその不確かな壁」を自分は電子書籍で購入し、少しづつ読んでいます。一度の全部読んでしまうのは何か惜しい気がするので
さて、作品の書評や作品を論じた記事なども出ていますので、自分の読後感は脇において、この作品に対する評判や評価がどうであるか、取り上げます
最初にドイツ文学者の松永美穂と英米文学者の阿部公彦による対談として、共同通信が配信している記事を貼ります
▽「最近の村上作品には違和感を覚えることが多かったが…」
―「街とその不確かな壁」は村上春樹さんの6年ぶりの長編小説です。3部構成で、第1部は17歳の「ぼく」と、「ぼく」が年を重ねた「私」の話が交互に語られます。「ぼく」が恋をしている16歳の「きみ」は、「本当のわたし」が生きているのは高い壁に囲まれた街なのだと語った後で姿を消す。一方、中年になった「私」は「きみ」が語っていた街に入り込んでいます。街の時計には針がなく、人々は影を持たない。壁の内側にとどまるべきか、外に出るべきか。決断の時が来る。第2部は舞台を福島県に移します。70代の子易(こやす)さんの後を継ぎ、図書館長になった40代の「私」は図書館に毎日のように来る少年と出会う―。ではまず、新作を読んでの印象を教えてください。
松永美穂 私は村上さんの最近の作品には違和感を覚えることが多かったのですが、本書には好感を持ちました。セックスや暴力は姿を見せずに内面に向かう話で、出てくる他者は限定的ですが、登場人物が絞られているからこそ関係性がよく見えます。丁寧に作り込まれていて、集大成的な作品になっていると思いました。
阿部公彦 第1部に80年の中編が原形をとどめる形で残っていることもあり、昔の自分をどう受け止めるかということ自体が作品になっていると感じました。第1部は初期の村上作品の叙情的な感じがあり、第2部はそれを受け止めて展開し、第3部で融和する。昔の自分と今の自分が拮抗(きっこう)するのが興味深い。
松永 「世界の終り―」は一番好きな作品だったので、本書を読み始めたときは既視感があり、戸惑いました。でも読み進めていくと、主人公が自分の影と分かれる分裂の仕方が成熟した書き方になっているのをはじめ、どんどん印象が変わっていく。若いころとは違う場所に行こうとしたのでしょうね。
阿部 冒頭でイギリス・ロマン派の詩人、コールリッジの「クブラ・カーン」を掲げています。村上さんがこの詩を意識したのがいつなのか分かりませんが、本書には「クブラ・カーン」の一節に似ている箇所がある。「壁に囲まれた街」自体、コールリッジが書いたザナドゥという桃源郷を思わせます。
「世界の終り―」もそうですが、壁をはさんで自分と影、現実と幻想、生と死といった二項対立が描かれますが、それが不安定で揺らぐところが面白い。同じモチーフを繰り返し書いていても、創作態度としては自然だし必然であると思います。
松永 今年3月に亡くなった大江健三郎さんもそうでしたね。
阿部 同じモチーフを何度も書く人には、特定の場所へのこだわり、空間的なオブセッション(強迫観念)のようなものがあるのだと思います。大江さんにとっては四国の谷間の村で、中上健次さんは和歌山の新宮、村上さんは壁に囲まれた街なのでしょうね。
松永 村上さんの小説には壁だけでなく、穴や井戸もよく出てきます。そしてある建物を下りていくと異世界とつながる。今回は半地下にある図書館長室がそうでした。
▽「カフカへの反論のようなものを感じる」
―村上さんにとって「壁」とは何だと思いますか。
阿部 壁に直面した時の無力感、システムの壁にはねかえされる感覚みたいなものが、村上さんの世代の感性としてあるのだと思います。2009年にイスラエルのエルサレム賞を受けた際のスピーチも思い出しました。「ここに硬い大きな壁があり、そこにぶつかって割れる卵があったとしたら、私は常に卵の側に立ちます」と話していましたよね。
松永 私はカフカを想起しました。「審判」と「掟(おきて)の前で」には門番が登場し、男は最後まで「掟」の中に入れない。でも村上作品に出てくる壁は「壁抜け」できる可能性がある。そこにカフカへの反論のようなものを感じます。
人々を分断する壁は至る所にありますが、抜けて向こう側に行けるというポジティブなメッセージを受け取りました。壁の高さは8メートルと書いてあり、ベルリンの壁の高さの2倍ほどで、随分高い壁ですよね。
(以下、略)
作者村上春樹の心境の変化なのか、あるいは思索の発展なのか、過去の作品と同じ設定を用いつつも、異なる展開に物語を進めようとする意図には概ね共感できます
初期の作品「風の歌を聴け」ではバーテンダーのジェイとの会話の中で、相手の心の内に踏み込もうとせずに当たり障りのない会話に終始し、分かったつもりになる…ことへの鋭い批判がありました。その先を語ることの重要さを判ってはいながら、その先を描く物語を生み出せないもどかしさ、不全感が村上春樹作品にはついて回っていたように思います
壁に囲まれた街、という閉塞状況の中で、その先へと至る物語を描くことに成功したのでしょうか?
これとは別に、鴻巣友季子は村上春樹の旧作「街と、その不確かな壁」と新作「街とその不確かな壁」を読み比べ、「二項対立を超えた物語の創生」を指摘しています
2つの作品の対比を記述した部分はネタバレになるので割愛し、その結びの部分だけを引用させてもらいます
真実と虚構、二項対立超える物語の力 村上春樹「街とその不確かな壁」を読む 鴻巣友季子の文学潮流
(前略)
村上は一人の作家が生涯で真摯に向き合えるモチーフは限られており、あとはそれを「手を変え品を変え、様々な形に書き換えていくのだ」とも本書あとがきで述べている。もちろん、作家が同じ主題やモチーフを繰り返し書くことはよくある。とはいえ、愛読者としては、「手」と「品」(舞台設定、プロット、キャラクター、道具立てなど)にもう少し変化がほしい気はする。
「4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて」に始まり、『ノルウェイの森』『国境の南、太陽の西』『1Q84』『多崎つくると巡礼の年』などで繰り返し書かれてきた「百パーセントの」人間関係の純度や、その濃密なやりとり、大切な人を突然失うこと、深い喪失感、集合無意識などについて、今回深化したバージョンを読めたのはよかったと思う一方、またもや二つの世界の往還で終わってしまったので、「この先が読みたい!」と思ってしまう。
村上春樹ならではの、純度が高いゆえに死に瀕しかねない閉鎖的関係から主人公が俗世に帰還するという展開は、『ノルウェイの森』における直子から緑との関係への転換ですでに書かれている。『街とその不確かな壁』で後者の役割を担うのは、コーヒーショップ経営者の女性だ。彼女と主人公との関係は今後どうなるのか?
いい年をした大人同士の完璧でない物語の本編は、『ノルウェイの森』のラストで主人公が緑に電話をかけた後に始まるのではないだろうか。
「ノルウェイの森」ではさまざまな登場人物との別れが描かれています。主人公は本当に語らなければならないことを口にできないまま、キズキと別れ、直子と別れ、突撃隊と別れ…と、電車の中から見送る景色のように次々と別れを重ねていくわけです
それだけの別れを重ね、何かを伝えようとするにはいつも遅すぎる状況を経験しながら、ラストのシーンでは緑に電話をしています。そこで何かを語ることができたのか、何も語れないままだったのか、読者が想像するしかありません
なので、「ノルウェイの森」で村上春樹が本当に描こうとしたのは、ラストシーンの、緑に電話をしたところから始まる物語だったのかもしれません。ただ、当時の村上春樹には書けなかったのでしょう
ただ、村上春樹がホイホイと物語の続きを書いて発表する可能性は皆無ですから、「ノルウェイの森」の緑への電話から始まる物語も、「海辺のカフカ」のその後のカフカ少年の物語も、読者があれこれ思い描くしかありません
壁に囲まれた街の物語も、その先がどこへ向かうのか、読者に委ねられた形です
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