映画監督森達也 「日本は不安に弱く集団主義」

一部で、「日本人は集団主義。同調圧力が強い」と言われます
しかし、この集団主義とか同調圧力については時と場合によってさまざまな形があり、単純に「日本人は集団主義だからダメ」とか、「日本社会は同調圧力が強いからダメ」と決めつけられません。中国や韓国のメディアが日本について報じる際、決まりきった日本のイメージとして「日本人は集団主義だから◯◯だ」と枕詞のように並べます。しかし、それは日本人や日本社会の実相を把握した上で書いているのではなく、彼らの思い込みでしかないのです
東京大学の研究では、この「日本人は集団主義」という定説が誤りだと指摘しています


『日本人は集団主義的』という通説は誤り
(前略)
オリエンタリズムとしての「日本人 = 集団主義」説
思想史に関する調査の結果、「日本人は集団主義的」という見方は、日本人自身がはじめから持っていたものではなく、欧米人、とくにアメリカ人が言い出し、それを日本人も受け入れたものであることが明らかになった。そうした主張をした欧米人は、日本人について必ずしも充分な知識と経験を持っていたわけではなかったことも明らかになった。
欧米人、とくにアメリカ人は、自らを形容するために、ポジティヴな意味で「個人主義」というレッテルを使うことが多い。異文化に属する日本人に出遭ったとき、その「個人主義」の対極にある「集団主義」というネガティヴなレッテルを天下り的に貼りつけたのではないかと推定される。すなわち、「日本人 = 集団主義」説は、オリエンタリズムの一種として成立したと考えることができる。
「日本人 = 集団主義」説が広まった理由
この通説は、戦後間もない時期に出版された、アメリカの人類学者ルース・ベネディクトの著書『菊と刀』によって世間に広まったと言われている。この時期、「日本人は集団主義的だ」という主張に接したひとびとは、戦時中に日本人がとった、見まがいようのない集団主義的な行動を脳裡に甦らせ、この主張に頷いたのであろう。
 しかし、歴史的な状況をみると、昭和初期から第二次世界大戦終結までの時期、日本人は強大な外敵の脅威にさらされていた。外部からの脅威に対抗するために、団結を強めて集団主義的に行動しようとする傾向は、日本人にかぎらず、人間集団に見られる一般的な傾向である。「世界で最も個人主義的」と言われてきたアメリカ人もその例外ではない。第二次世界大戦中の言論統制や敵国からの移民の強制収容、冷戦下の赤狩りといった歴史的事実がそれを物語っている。
日本人が大戦中にとった集団主義的な行動は、外敵の脅威に直面したときに人間集団がとる普遍的な行動であるにもかかわらず、「集団主義的な文化」の証左であると解釈されてきたのは何故なのだろうか? その理由は、「対応バイアス」という思考のバイアスだということが明らかになった。「対応バイアス」というのは、「人間の行動の原因を推定するとき、外部の状況を無視して、その行動と対応する内部の特性(たとえば、「集団主義的な行動」と対応する「集団主義的な精神文化」や「国民性」)が原因だと解釈してしまう」というバイアスである。対応バイアスは、数多くの心理学的な研究によって、強固で普遍的なバイアスであることが明らかになっている。
(以下、略)


ルース・ベネディクトの「菊と刀」は名著とされ、日本人論の鑑のような扱いをされていますが、ルース・ベネディクト自身は日本を訪れたわけでもなく、在米の日本人の話を聞き、観察し、考察して書いたものであり、実際に読めばトンチンカンな記述も目につきます
ただ、それでも上記のような「日本人は集団主義」というバイアスに囚われてしまっているジャーナリスト、文化人はいまだに多くいて、珍妙な日本人論や日本社会論をあちらこちらで開陳しているのが実情です
映画監督の森達也を名指しして批判するのもどうかとは思うのですが、彼も批判を受ける覚悟の上であれこれ意見を述べている人物ですから、幾つか指摘させてもらいます
建国記念日に開催された集会の場で講演した森達也は以下のように述べています


オウム真理教を題材にしたドキュメンタリー「A」で知られる映画監督で作家の森達也さん(66)がこのほど、大津市におの浜4丁目の解放県民センターで講演した。地下鉄サリン事件やロシアによるウクライナ侵攻で目立つ一方的な報道や、日本人の同調圧力の強さを取り上げ、「多くの戦争は自衛から始まる」と警鐘を鳴らした。
森さんは、オウム真理教による1995年の地下鉄サリン事件を機に、動機が分からない凶悪犯罪への不安や恐怖から異物を排斥する集団心理が強まり、犯罪の監視や厳罰化が進んでいると説明。
(中略)
ウクライナ侵攻を巡る報道も問題視した。武力行使したロシアが悪いとした上で、プーチン大統領のクリスマス休戦の提案をウクライナは拒否したにもかかわらず、クリスマス期間中のロシアの攻撃を非難したとし、「蹴ったのはゼレンスキー大統領。メディアは常軌を逸している。別の見方を示すべきではないか」と述べた。
森さんは政治とメディア、社会は三位一体だとし「日本人は不安と恐怖に弱く、集団化を起こしやすい。再び悲劇を起こさないよう、集団に生きながら個を保つことが大事だ」と訴えた。質疑応答で「個」を強くする方法を問われ、「社会や組織ではなく『私』を主語に話し、考えること」と答えた。
講演会は「建国記念の日」に合わせ、県内の労働組合や宗教関係者でつくる実行委員会が「第18回平和・靖国・憲法・教育・人権そして貧困を考える これでいいのか日本!2023滋賀集会」として開いた。約120人が来場した。
(京都新聞の記事から引用)


記者が講演の一部を切り取って記事にしたものであり、必ずしも森達也の言いたかった点を押さえた内容ではないのかもしれません
ただ、「日本人は不安と恐怖に弱く、集団化を起こしやすい」との指摘も、それが日本に限った現象ではないのは言うまでもないでしょう
アメリカでの黒人暴動と黒人への暴力(丸腰の黒人を白人警察官が射殺する件)や、アメリカにおける中国系や韓国系、ベトナム系市民への暴力、世界各地で起きている民族対立や宗教対立など、荒々しい暴力の応酬があります。それらに比べれば日本社会いざこざや対立など、先鋭化までには至っていないと思います(だから放置しても構わないとは言いません)
また、森達也は「政治とメディア、社会は三位一体だ」とも発言しているのですが、これも理解不能です。昔から用いられている表現で、森達也独自の見解ではないのですが、三位一体と呼べるような関係なのかどうか、よくよく検証する必要があるのでは?
政治と言ってもそこには政府もあれば与党、野党もあり、決して一枚岩ではありません。メディアも右寄りから左寄りまでさまざまな立場があり、社会に至ってはこれを「社会は」と一つに括って語れるものかどうか大いに疑問です
このように立場や主張が異なるものを三位一体などと決めてかかるのは相当に無茶なやり方でしょう
森達也が言わんとしたのは、「一部の政治権力と一部のメディアが持ちつ持たれつの関係にあり、それに迎合する社会勢力がある」との意味だと想像しますが、言葉と表現を選んで使い分けた方がよいのでは
日本社会の特徴を語るのであれば、ステレオタイプのように用いられる旧来の日本社会論や日本人論を持ち出すのではなく、そうした固着したイメージと現実との差異に注目し、違いをこそ語るべきでしょう

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