村上春樹新作「街とその不確かな壁」について

村上春樹の新作が6年振りに刊行されると報じられています。タイトルは「街とその不確かな壁」で新潮社から出ます
このタイトルで思い当たったのが、長編小説「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」に先駆けて書かれ、文芸雑誌に発表されたものの本としては出版されないままだった中編小説「街と、その不確かな壁」です。自分も読んでいない(文學界の1980年9月号掲載なので、それを入手しないと読めない)ので、どのような作品なのか興味が湧きます
「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」について書かれた論文を集めていた折に、「街と、その不確かな壁」に言及した論文を見た記憶はあるのですが、誰の何というタイトルの論文だったのか失念してしまいました。手許にも該当する論文は見つかりません
そこで今回は村上春樹の新作と幻の中編「街と、その不確かな壁」に言及したリアルサウンド・ブック掲載の記事を引用します


村上春樹、新作との関連が囁かれる幻の中編「街と、その不確かな壁」とはどんな作品なのか? 文芸評論家に訊く
https://realsound.jp/book/2023/03/post-1271359.html
秋、獣たちの体は輝くばかりの金色の毛に覆れる。そして額に生えたしなやかな一本の角はどこまでも白い。彼らは冷ややかな川の流れでひづめを洗い、首を伸ばして秋の赤い実をむさぼる。
素晴らしい季節だった。
僕は西の壁に沿って設けられた古い望楼に立ち、午後五時の角笛を待つ。角笛は長く一度、短く三度、それが決まりだ。柔かな角笛の音が暮れなずむ街角をまるで古い思い出のようにゆっくりと通り抜けていく。
(『文學界』1980年9月号掲載「街と、その不確かな壁」より)
「君」の想像上の街を訪れた「僕」は、図書館の書庫で古い夢の整理をする予言者の仕事をすることになる。壁に囲まれた街には一角獣が住んでいる。「僕」は影を切り離して、この街にやってきたーー『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』読者にとっては馴染みのある設定であろう。
文芸評論家の円堂都司昭氏に、本作の位置付けを訊いた。
「村上春樹は村上龍との対談集『ウォーク・ドント・ラン―村上龍vs村上春樹』(1981年)にて、『街と、その不確かな壁』について言及していました。この対談の中で、龍は『西瓜糖の日々』の著者であるリチャード・ブローティガンに『処女作なんて体験で書けるだろ? 二作目は、一作目で習得した技術と想像力で書ける。体験と想像力を使い果たしたところから作家の戦いは始まるんだから』と言われたことを話し、春樹もその話に共感するような形で三作目のことを話していました。
龍の三作目は、1980年10月に発表された初期代表作『コインロッカー・ベイビーズ』で、春樹の『街と、その不確かな壁』とほぼ同時期に世に出たものです。ただ、春樹にとって『街と、その不確かな壁』は、単行本の三作目として刊行するには納得のいく仕上がりではなかったのでしょう。
龍の『コインロッカー・ベイビーズ』が、前二作(『限りなく透明に近いブルー』『海の向こうで戦争が始まる』)の主人公の傍観者ぶりとは打って変わって、主体的に行動する小説となったように、実際に春樹の三冊目として刊行された『羊をめぐる冒険』もまた主人公が『冒険』する話となっていました。『街と、その不確かな壁』はその後、1985年の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』に結実しますが、そこに至るためにはまず『羊をめぐる冒険』で、断章形式だった前二作とは異なる、ストーリーテリングに取り組んだ長編をものにする必要があったのかもしれません」
龍に三作目についての助言を与えたリチャード・ブローティガンだが、彼の影響は春樹の方が大きかったのではないかと、円堂氏は続ける。
「『街と、その不確かな壁』は、リチャード・ブローティガンの『西瓜糖の日々』に近い手触りを感じる作品です。『西瓜糖の日々』はコミューン的な場所であるアイデス〈iDeath〉と〈忘れられた世界〉が舞台となっていて、言葉を話せる虎たちが登場しました。それに対し『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』は、『西瓜糖の日々』のようなファンタジーである『街と、その不確かな壁』を発展させた「世界の終り」パートに、近未来SF的な「ハードボイルド・ワンダーランド」を付け加えたことで飛躍した小説で、その意味で転機となった作品といえるでしょう」
(中略)
「春樹の一番の転機となった作品として、よく『ねじまき鳥クロニクル』が挙げられます。春樹が言うところの【「デタッチメント」から「コミットメント」へ】という変化ーーつまりそれまで内向的な作風で社会とは距離を置いていたのが、『ねじまき鳥クロニクル』では戦争という暴力を描き出そうとするなど、以前とは異なる作風になりました。その後、1997年には地下鉄サリン事件の被害者へのインタビューをまとめたノンフィクション『アンダーグラウンド』刊行するなど、さらに社会とのコミットメントを意識した作品を発表します。
そのような視点でふり返ると『街と、その不確かな壁』には退役軍人が出てくるなど、戦争や権力の影が見え隠れしていた。また、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』との結末の違いには、何かを選ぶこと、決断すること、引き受けることについて、春樹なりの逡巡が見て取れます。『ねじまき鳥クロニクル』が転機だとすれば、『街と、その不確かな壁』はその予兆だったと言えるのかもしれません」
(以下、略)


初心に帰るというものではないにせよ、中編「街と、その不確かな壁」が思うに任せない作品だったという経緯もあり、再度これを自分の納得できる形へと昇華させる試みかもしれません。が、原稿用紙1200枚という長編に仕上がっており、「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」とも違う作品になっているものと思われます
前作「騎士団長殺し」はどうにも微妙な出来だっただけに、今回の新作は若い頃の村上春樹らしさが復活するのか、あるいは老練な書き手への変貌を示すのか、気になるところです
以前にも書きましたが、初期の村上春樹作品というのは芥川賞など文芸賞の審査員からはボロクソに批判されており、それでも小説としては驚異的な売上を誇っていました。つまり評論家や作家からの評価は低かったものの、読者から支持されていたわけです
ちなみに「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」は谷崎潤一郎賞を受賞しているのですが、遠藤周作、大江健三郎、吉行淳之介といった面々は随分と否定的な評価を下しています
遠藤周作は「2つの並行した物語の作品人物(たとえば女性)がまったく同型であって、対比もしくは対立がない。したがって二つの物語をなぜ並行させたのか、私にはまったくわからない」と否定的な意見を述べています
大江健三郎は「ここでふたつ描かれている世界を、僕ならば片方は現実臭の強いものとして、両者のちがいをくきりさせると思います。しかし、村上氏は。パステル・カラーで描いた二枚のセルロイドの絵をかさねるようにして、微妙な気分をかもしだそうとしたのだし、若い読者たちはしの色あい翳りを明瞭に見てとってもいるはずです」と物足りなさを表明しています
吉行淳之介は「交互に置かれた二つの話のそれぞれ主人公『私』と『僕』が、やがて交叉しはじめ、『私』イコール『僕』と分かり、二つの世界の物語は同時進行して、最後に『私』も『僕』も消えてしまう、という構想は面白い。ただ、この二つの世界は、描かれている文体は違うが味わいは似通っている。そのためか、作品が必要以上の長さに感じられた。この作品の受賞に、私はやや消極的であった」と述べ、受賞を疑問視しています
これに対し村上春樹は、「この作品が『街と、その不確かな壁』の持っていた『志のある失敗作』という尻尾の痕跡をまだとどめている」と認めながらも、「『街と、その不確かな壁』の未完成さとはまったく異質のものであり、もう一度書き直したいという風には思わない」と述べています(村上春樹「自作を語る~初めての書き下ろし小説」:講談社刊「村上春樹全作品1979~1989④」収録)
逆に捉えるのであれば、「街と、その不確かな壁」はいつか書き直そうと心に決めていた作品だと解釈できます
ここであれこれ書くより、まずは作品を読まなければ始まりません。読後、あらためて言及するつもりです

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