「風の谷のナウシカ」 リーダーシップ論の在り方

劇場版「風の谷のナウシカ」を引き合いに出して、「理想とするリーダー像」と持ち上げる論評にしばしば遭遇します
以前にも書いたように、劇場版「ナウシカ」と漫画版「ナウシカ」には大きな違いがあるわけで、漫画版「ナウシカ」を読んでしまった者としては劇場版「ナウシカ」だけを観て理想のリーダーとか口にする人たちを、胡散臭く感じてしまいます。「そうじゃないだろう」というやつです
宮崎駿がアニメーションで「ナウシカ」を制作した時点では漫画版「ナウシカ」は完結しておらず、結末をどうするかも決まっていませんでした
なので、宮崎駿が漫画版「ナウシカ」にあのような結末を描いた結果、劇場版「ナウシカ」をどう思っているのか気になるところではありますが、一度世に出した作品ですから、いまさらどうのこうのと語ったりはしないのでしょう
さて、前置きはここまでにして、本日はWebマガジン?の「Modern Times」に掲載された小松原織香氏の「正しくあれない自分に耐え、不恰好に生きるということ」と題する文を取り上げます
ウクライナ侵攻などと宮崎駿の漫画版「ナウシカ」を重ねて、「生きねば」の意味を考察したものです

正しくあれない自分に耐え、不恰好に生きるということ
https://www.moderntimes.tv/articles/20220415-01
(前略)
日本のSNSを覗いてみると真偽のわからない情報が大量に飛び交っている。そのとき、一枚の写真を見た。ウクライナの人々がシェルター代わりの地下鉄の駅に避難しているなか、パンを焼いている職人が写っていた。日常の写真であればなんの変哲もない、パン屋さんの写真。私はそれを見て動揺した。
ウクライナは緊急事態だ。自分の職場を放棄して逃げても、誰も責めることはできないだろう。同時に、どんな状況であっても人間は腹が減る。生きるためにはパンが必要だ。だから、パン屋はパンを焼く。それだけの話だった。
(中略)
研究のために目の前に積まれた7冊のマンガ。『風の谷のナウシカ』は大好きな作品だが、ウクライナの戦争が起きているなかで、なにごともなくそれを読むのは難しい。この作品は、小国が大国に翻弄され、人々が戦争に巻き込まれていく様子を描いている。意図しなくても、現実とマンガの戦争のイメージはオーバーラップしていく。そして、「こんな状況でマンガなど読んでいる場合だろうか」という疑問が湧いてくる。ロシアを批判するデモ行進や難民支援についての情報も入ってくる。
私はなにをやっているんだろうか。
(中略)
(宮崎駿は)1943年には栃木県の宇都宮に転居し、1945年に宇都宮大空襲を目撃する。家族は、会社のトラックで火のなかを逃げて避難した。そのとき、近所の女性が女の子を抱いて、「乗せてください」と懇願したが、それを無視して車は走った。そのときの記憶について、宮崎はこう語っている。
自分が戦争中に、全体が物質的に苦しんでいる時に軍需工場で儲けてる親の元でぬくぬくと育った、しかも人が死んでる最中に滅多になかったガソリンのトラックで親子で逃げちゃった、乗せてくれって言う人も見捨ててしまった、っていう事は、四歳の子供にとっても強烈な記憶になって残ったんです。
当時、同じ状況にいた宮崎の兄は、この証言の一部が間違っていることを指摘している(大泉実成『宮崎駿の原点 母と子の物語』、潮出版社)。しかしながら、重要なことは出来事の真贋よりも、4歳の子どもの心のなかに刻み込まれた「救えなかった」というトラウマ的な体験である。その後の彼は、両親が母子を見捨てたことや、自分自身が両親を止められなかったことを悔い、大人への不信と自己嫌悪としてこの記憶を引きずっていく。
(中略)
マンガ版『風の谷のナウシカ』でも、宮崎はまさしく、この世界を生きる人間が「どう生きればよいのか」を描こうとしている。ナウシカは動物や植物を愛する優しい少女であったが、戦争に巻き込まれ、人を殺し、謀略に加担し、時には絶望しながら生きていく。彼は、ナウシカについて「人を殺した人間だから、殺すことの痛みがわかった人間だから。それで膝を曲げるんじゃなくて、それを背負って歩いている人間だから、この娘は描くに値する(宮崎、2013年、前掲書、57頁)」と語っている。宮崎にとって、倫理は「正しい生き方」ではなく、「正しく生きられなくても、その自分を見つめ続けること」である。そのことは、作品の最後の頁の最後のコマに書かれた「生きねば」という一言に集約されている。正しくあれない自分に耐え、周囲に揺れ動かされながら不恰好に生きること。それを宮崎は肯定する。


引用が長くなりました
漫画版「ナウシカ」で描かれる姿は、おそよ世間一般で言われるところの「理想のリーダー、ナウシカ」とは大きな隔たりがあり、彼女は人間が決して「青き清浄の地」に辿り着くことはできず、死の淵で生きながらえるしかないと知っていて、それでもなお理想を掲げて人々を鼓舞するリーダーを演じようと決意します
そして小松原織香は冒頭のウクライナのパン屋と、ナウシカ、宮崎駿を重ねて「どう生きるか」、「生きねば」の意味を見出そうとします


宮崎の「生きねば」という倫理は、本人の生き方にも反映されているように見える。2011年3月11日の東日本大震災の直後に、彼がとった行動はドキュメンタリーフィルム(NKK「ふたり コクリコ坂・父と子の300日間戦争〜宮崎駿×宮崎吾朗」2011年、DVD)に記録されている。東京の小金井市にある、宮崎が所属するスタジオジブリは新作映画の製作に追われていた。そのさなかで起きた震災。3月14日に緊急ミーティングが開かれ、3日間の休業が決まった。ところが宮崎は激怒し、「生産点を放棄しちゃいけないですよ。生産点は映画を作ってる現場ですから。こういう時こそ神話を作んなきゃいけないんですよ。多少揺れても作画してたって」と再考を求めた。一転してジブリは通常業務に戻る。宮崎は暖かいカレーパンを配りながら、現場をまわり、スタッフに声をかけた。そして、一人になると「こういう事態が起こった後の日本に堪えられる映画を作れるかどうかだから」とつぶやいた。


まあ、このエピソードは美談ではなく、いかにも「アニメの鬼」である宮崎駿らしいエピソードでしょう。ただ、小松原織香の中で、地下鉄駅構内に避難してもパンを焼き続ける職人と、震災に遭遇してもアニメ制作を中断しない宮崎駿(そしてナウシカ)が重なり合い、1つの生きる形として結実したものと思います
もちろん、アニメ制作を中断し、映画公開を先送りしてでも自分の車に積めるだけの食料を積み、福島や宮城へ駆けつけ食料を配って回るという選択肢もあったわけです
ただ、それでもアニメ屋がアニメ作りを止めないところが、「生きる意味」なのだと考えたのでしょう
リーダー像をどう描くかは人それぞれであり、「理想のリーダー」なる最大公約数めいたものを幾つならべたところで、役に立ちとは思えません。結局、漫画版「ナウシカ」では、多くの人を騙し、偽りの希望を語るペテン師のような役割をナウシカは担うのであり、それが正しい行いであるとはナウシカも思ってはいません。ただし、ナウシカは教祖にもならず、神にもならないと決意しているのであり、そこは当世の「カリスマ経営者」と段違いです
劇場版「ナウシカ」だけを観て「理想のリーダーはかくあるべし」と語っている人には、ぜひとも漫画版「ナウシカ」を読んでいただきたいところです
アニメーション監督の押井守は、「映画は繰り返し語られることで映画になる」と語っており、その意味で幾度もテレビで放映される宮崎駿作品は今日的な問題意識を繰り返し投げかけ、問いかけています。過去の名作として押入れの中にしまい込まれたりはしないのであり、これからも繰り返し語られる映画である続けるのでしょう。漫画版「ナウシカ」もそうであると信じます

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