宮下洋一著「死刑のある国で生きる」について

12月も末になりました。いつもなら死刑が執行される時期です。この年末、死刑の執行はあるのでしょうか?
新潮社から「死刑のある国で生きる」という著書を出したジャーナリスト宮下洋一氏が、死刑制度についてのインタビューに応じ、それが記事としてウェッブサイトに掲載されているので取り上げます。なお、この著作については今朝知ったところで、書店に注文しました。届き次第、感想を書きます。今回はJBpressに掲載されたインタビュー記事と、この本についてAmazonに掲載されている書評を参照します
宮下洋一氏は長野県出身で高校卒業後ウエスト・バージニア州立大学を卒業し、その後スペインのバルセロナ大学大学院にて修士号を取得したと、プロフィールにあります。ただ、こうしたプロフィールだけでは、宮下氏がどのような思想、理論をバックボーンにして取材し、本を書いているのか分かりません。ジャーナリスト志望だったので社会学なりを齧っているのだろうとは思いますが、以下のインタビューを読んでも明確な知見もなく、ただ取材に走り回り、見たものを感じたまま書いているだけ、という感じがします。自分がそう感じた理由は、後で書きます


なぜ死刑制度は存在するのか?死刑廃止の意味を死刑囚との対話を通して考える
(前略)
──日本弁護士連合会の死刑の廃止を求める声明文に関して、動機や説明が不十分である、といった印象をご著書の中で宮下さんが持たれたように見受けました。
宮下洋一氏(以下、宮下):日弁連は死刑の廃止を求めています。この主張は2016年の日弁連の人権擁護大会で決まり宣言されました。先進的な民主主義国家は死刑制度を廃止し、まだ死刑を続けている国はアメリカと日本だけで、だから日本も死刑を廃止しなければならない、というのがその理由です。
この主張は「死刑廃止が世界の潮流だから日本もやめよう」というもので、日本人にとって死刑を廃止する意義が何なのかをあまり語っているように思えません。
──日本に死刑制度が残っているのは、日本が遅れているからなのでしょうか。それとも、日本独自の事情や考えがあり、死刑制度を意図的に残しているのでしょうか。
■ 全米一危険な刑務所のリアル
宮下:おそらく日本は死刑に対して考えてさえいない状況だと思います。あえて国民が死刑について考えないようにしているのかもしれない、と思うくらい日本政府は死刑に関して情報を公開していません。
報道機関やジャーナリストが死刑囚と話したり、死刑場を訪れたりすることができれば、この国でももっと死刑に対する議論が進むと思います。

日弁連による死刑廃止を求める声明が、「なぜ死刑廃止なのか」という疑問に十分応えるものではなく、説得力を欠いているのは指摘のとおりです。ただ、ジャーナリストが死刑囚を直接取材したり、刑場に行って写真を取れば死刑に対する議論が進むとの考えは「?」です
野次馬的好奇心を満たす役には立っても、死刑を巡る議論が深まったりはしないでしょう

この農村地では、加害者のサマネスの家が重要な存在で、村全体でその家をかばっていて堂々と批判できない雰囲気もあった。コミュニティの関係性を重んじるこの辺の感覚は、少し日本的と言えるかもしれません。
私はメールを通して加害者のサマネスとも話しましたが、「被害者には申し訳ないが、更生して戻ってきたので、自分が住みたいところに住んで何が悪いのだ」といった回答でした。
ヨーロッパ社会というものは最終的には個人なのだと思います。自分が個として何を思いどう生きるかが問題なのです。これに対して日本人は、より周囲との関係の中で自分がどうあるべきか考える。
これが日本と欧米社会の違いで、だから、このような日本では考えられない現象が起きるのだと思います。

自分は今年、ジョン・デューイやミードといったアメリカの社会学者の著作を読んでいます。宮下氏がアメリカで社会学系の講義を受講したのであれば、こうした社会学の知見を身に着けているはずですが、上記の文を読んでも「日本人は集団主義で周囲の目を気にし、欧米人は個人主義だから周囲の目など気にせず自己主張を通す」といった、言い古された固定観念を持ち出しているだけです。もちろん、こうした知見はアメリカの社会学には存在せず、日本でのみ繰り返し語られる偏見です
人は己の存在を周囲との関係によって位置づけるしかないのであり、地域や職場、学校、家庭と言った所属する集団の中で自分自身を定め、理解するのです。なので、日本人が地域社会との関係を意識するのは特別ではなく、当たり前の認識です
「欧米の個人主義」という括り方は極めて雑な理解の仕方であり、要は地域社会や職場、学校という所属する集団の中で自身の位置を見定めようとしない傾向があり、それが各種の対立や軋轢を生み出す原因になっていると理解する必要があります
上記の引用文ではスペインの殺人犯が仮釈放後、出身地である小さな農村に戻り被害者宅の眼の前で住み暮らしている例を挙げたものです。「自分の住みたい所に住む」との弁を宮下氏は欧米の個人主義の現れだと書くのですが、これは元殺人犯が「自分が自分としていられるのは出身地の小さな村だけ」という認識しか持てないことの現れであって、個人主義などと呼べるものではありません。元殺人犯が村を離れて都会に出たら、「名無しのゴンベイ」、「その他大勢の1人」でしかないとの畏怖を内包していると解釈するのが妥当です
死刑囚や犯罪者の言い分に耳を傾けるのは取材の根幹として間違ってはいません。ただ、それをどう理解し、解釈し、分析するのか、明確な方法論や知見が必要です。感じるまま、思うがままではダメなのです
Amazonの書評から2つほど引用します

冒頭、アメリカの死刑囚と著者の面会の様子があります。そこで「言い訳も、ほとんど聞こえてこなかった」「彼に対して情が湧き、それは最後まで消えなかった」とあります。私は何度読んでも「言い訳しかしていない」と感じました。「なぜやったのか分からない。どうかしていた。今は反省している。」というやつです。本書に登場する囚人の起こした事件はどれも凄惨で、子どもが犠牲となったものもあります。この中のある囚人が死刑判決を受けた当時、囚人の手紙がテレビで紹介され、必死な命乞いのような内容に「なんて身勝手な…」と嫌な気持ちになったのを憶えています。著者は中立性を保ち、アメリカ、フランス、スペイン、日本で、国の制度や当事者、関係者を取材し、死刑制度について考えたいとあります。ですが、私は「加害者側を擁護しすぎでは」と感じました。正直言って、私は本書の囚人やフランスで現場射殺された人にも全く同情する気になりませんでした。

Amazonなので「試し読み」ができるので、試し読みしてみた。
まず目次「現場射殺という名の死刑(フランス)」とのことだが、これは警察官の職務執行の話で、ズレている。
「世界の多くの国々では、死刑はもはや時代遅れの産物のように語られる」とあるが、世界人権宣言(第3条をご一読)は1948年に採択され、国際人権規約(B規約第6条をご一読)は1966年に採択、1976年に発効している。正直取材のやり方が間違っている。なぜ世界人権宣言や国際人権規約の文言のようになったかを調べるべきだろう。
「試し読み」の限りでは、基本的な知識が欠落しているように見え、読む気がしないので、星1つとする。

さまざまな人の意見、考え、思いを引き出すのは良しとしても、最後にそれをどうまとめるのか、まとめられないにしても「現時点で日本はなぜ死刑を存続させているのか?」に対する著者なりの答えを用意する必要があるのでは?
あるいは、死刑廃止論と存続論の食い違い、すれ違いがなぜ生じているのか、それが日弁論の主張するように「死刑について議論を深めれば廃止に結びつく」ものなのか解き明かすなど、著書にまとめる方法はいくらでもありそうな気がします

(関連記事)
光市母子殺害事件 裁判を振り返って
光市母子殺害事件 第2次再審請求棄却
光市母子殺害事件 実名本出版を巡る訴訟
光市母子殺害事件 更生より極刑の判断は誤りか?
光市母子殺害事件 最高裁が特別抗告棄却
光市母子殺害犯 再審申し立てるも棄却
光市母子殺害弁護団の賠償請求 最高裁が棄却
光市母子殺害事件を考える 最低の弁護団
光市母子殺害事件で福田死刑囚が再審請求
作家森達也が光市母子殺害事件判決にイチャモン
光市母子殺害事件 最高裁も死刑判決支持
光市母子殺害事件被告の実名本発売
4人を射殺した永山則夫を聖人視するメディア
死刑囚に感情移入する愚かさ
死刑囚の妻になりたがる女性