村上春樹「羊をめぐる冒険」とマジックリアリズム

村上春樹の短編集「蛍・納屋を焼く・その他の短編」に収められている「踊る小人」を取り上げた際、村上作品には南米文学に見られる魔術的リアリズムの影響を受けていると指摘した論文を引用したのですが、自分はその魔術的リアリズムがどのようなものかさっぱり分からないままでした
ブログに記事を書いた後、ウェッブサイトを検索し「南米文学における魔術的リアリズム(マジックリアリズム)」を説明したサイトを読み歩き、多少なりとも理解しようと試みたわけです
南米文学作品は未読なのでしかとは分かりかねるのですが、貴重な学習の機会となりました
その際に見つけたのが、「羊をめぐる冒険」におけるマジックリアリズムを論じた記事です
筆者は葛生賢治という翻訳家兼哲学者です

仮定法な世界で

文学の世界にマジックリアリズムと呼ばれる手法があります。「ありえない現実」と「本当の現実」が奇妙な形で直結するというもの。1982年にノーベル文学賞を受賞したコロンビアの作家ガルシア・マルケスの代表作「百年の孤独」をはじめ、60年代にブームとなったラテンアメリカの文学作品に多く使われ、有名になりました。
日本では村上春樹がマジックリアリズムを多用している作家と言われます。彼の長編小説「羊をめぐる冒険」がその代表格でしょう。
主人公の「僕」はある日、巨大な権力を持つ右翼団体のトップらしき人物に命令され、日本には存在しないはずの羊を見つけ出す奇妙な旅に出ます。問題の羊とは人に憑依する霊的な存在だということが分かり、徐々にその全貌が明かさていきます。ついに羊がいると思われる場所、親友の別荘に到着しますが、現れたのは羊の皮を着ぐるみのように被った男、「羊男」でした。
羊男はタバコを吸い日本語をしゃべり、ヒゲ面の口元が羊の仮面からむき出しになっています。拍子抜けするほど凡庸で「現実的」。その姿は不格好で滑稽ですらありながら、同時に超現実的で霊的な存在として「僕」の前に登場します。目の前に展開されるのがファンタジーなのか現実なのか、判断がつかない状態。ファンタジーでもあり、同時に現実でもある、そんな世界。

「羊をめぐる冒険」を読む読者のほとんどは「風の歌を聴け」や「1973年のピンボール」といった作品を読んでおり、その物語世界の延長(必ずしも同じ物語世界、同じ登場人物ではなくとも)として「羊をめぐる冒険」を読み進めるのでしょう
読者を迎え入れるのはおなじみの村上ワールドであり、そこでは次々と奇妙な出会いがあり、別れがあり、喪失がめぐってきます
しかしながら読者は、村上ワールドで起こる奇妙な出来事を受け入れ、物語世界の中を歩み続け、やがて出口にたどり着きます
この村上ワールドを構成するものがマジックリアリズムなのだ、と自分は受け止めます
ただ、上記の引用部分で、「目の前に展開されるのがファンタジーなのか現実なのか、判断がつかない状態。ファンタジーでもあり、同時に現実でもある、そんな世界」と表記するは賛同できません。後述のように、筆者は「ファンタジーとマジックリアリズムは別物」と述べているわけですから、ここではファンタジーと表記せず、「非現実」等の表記を用いて区別した方がよかったのでは?

日本文学研究者のマシュー・ストレッカーはマジックリアリズムを「詳細にまで描写された現実的な場面が信じがたいほど奇妙なものに侵略されること(what happens when a highly detailed, realistic setting is invaded by something too strange to believe)」と定義しています。
「侵略される」とはどういうことでしょう。国家による侵略を想像してください。侵略国(X)は侵略された国(Y)の同意なくその土地に居座り、X語をYの公用語にし、Xの文化とルールでYを塗りつぶします。それでYはXになったのでしょうか?そんなわけはありません。侵略の暴力で抑圧されたYの怨念は影となってXに漂います。XはXでありながら、「存在しないはず」のYを含んでいるのです。Yは消滅した。でも、どこかに存在する。それがどこなのか、誰にもわからない。

言い換えると「日常が非日常によって侵食される事態」を指し示すのでしょう
どこまでが日常なのか、どこからが非日常なんか、境界は曖昧で区別するのが困難な事態を思い浮かべれば、理解しやすいかもしれません

マジックリアリズムがファンタジーと違うのはこの点です。ファンタジーは要するにおとぎ話。これは架空のお話です、と宣言することで成立し、「奇妙なもの」と「現実的な場面」が完全に切り離されています。マジックリアリズムでは、両者の距離がゼロになります。侵略により、違和感を残しながら両者が同時に存在する。どこまでが「現実的な場面」なのか、「奇妙なもの」なのか、区別がつかない。そんな世界観。
現実の中で現実に起きていないことを想定し、「仮にこの現実(A)が違う現実(B)だったとしてみよう」「AだってBだったかもしれない」と考える点で、仮定法と同じ構造を持つと言えないでしょうか。

マジックリアリズムとファンタジーの違いをを筆者は上記のように表現していますが、かならずしも納得できる説明とは言い難いものがあります
ただ、わかりにくい説明でありながらも、「AだってBだったかもしれない」との考えこそ、重要なのではないかと思います
幾度となく描かれる村上春樹作品の喪失体験には、「AだってBだったかもしれない」とする未練、あるいは未達の思いが存在しており、その痛み、うずきが読者にも伝わるからです

2016年にイギリスのオックスフォード辞書が発表した「今年の言葉」はpost-truth(ポスト真実)でした(こちらの記事)。莫大な量のニュースとフェイクニュースがフラットに並べられたサイバー空間にスマホでつながり、私たちは情報の濁流に身をさらしています。事実とファンタジーを分けるのは受け取る側の判断力のみ。昨日までの人気者が今日からは炎上の対象。真実を証明する政府の公式文書さえも、いとも簡単にシュレッダーにかけられる現実。一体、誰が桜を見たのでしょう。
まさに私たちは仮定法的な現実を生きている、と言えないでしょうか。
そこで「何が現実で、何がファンタジーか?」を問うのは哲学の仕事ではありません。もちろん両者を識別するのは大事ですが、哲学は「『現実』とは何か?」を問います。私たちはそもそも「現実」という言葉で何を意味しているのか?私たちにとってリアリティとは何か?
そう問うとき、多くの人が共有する「リアルなもの」として、私たちは仮定法的な世界に直面するのかもしれません。

コロナウィルス感染という事態を私たちは飲み込めないまま、受け入れられないまま感染爆発の中に投げ込まれてしまいました
昨日まで元気だった知人が感染したと聞き、一週間後には亡くなってしまうという現実。リアリティがまったく感じられなくても、現に亡くなっているのであり、二度と会えないのです
村上春樹の小説は幾度も「喪失体験」を描き、失ってしまうリアルをこれでもかと表現します。何かを失う体験、人生にぽっかりと穴があき、それを埋められないまま、傷のうずきを抱えて生きるというリアルが、国境を超え、人種を超え、政治体制の違いを超えて多くの人の共感を呼び覚ますのでしょう

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