「海辺のカフカ」 エディプスコンプレックスを巡って
秋めいてきましたのでじっくり読書、と言いたいところですがなかなか思うようには読めません
未読の村上春樹の長編小説と短編小説集を買って、ポツポツと読み始めたところです。ブログで取り上げるのはまだ先になります
今回は「海辺のカフカ」についての柴田勝二東京外語大教授の論文を取り上げます
気になっていた、「海辺のカフカ」におけるオイディプス神話とフロイトのエディプス・コンプレックスとの関係を考察したものです
殺し、交わる相手ー「海辺のカフカ」における過去ー
(論文1ページ)
もっとも吉田敦彦によれば、本来の神話においてはライオスに与えられた神託は、息子によって命を奪われるという部分だけであり、息子が妻と交わるという部分は、帰結から遡及的に導かれて元の神話に付加された側面が大きいようである。そしてこの神話を素材としてソフォクレスが悲劇を書き、フロイトが青年期の男子の内的な傾斜を追求する言説を生み出すことによって、ギリシャ神話のなかでもっともよく知られたものとして流通することになった。
(中略)
それを聞かされた大島さんが、「それはオイディプス王が受けた予言とまったく同じだ」という感想をもらすことで、この作品の世界が古代ギリシャの神話、悲劇の主題を取り込みつつ構築されていることが明確化される。その場合重要なのは、この神話的世界との連関が派生させる、フロイトの言説との類縁をこの作品がむしろ回避していることで、オイディプス神話への親しさが明示されるのはそのための戦略であるともいえる。村上自身、この作品の着想がオイディプス神話にあって、フロイト的なオイディプス・コンプレックスにないことを明言している。
フランスの精神分析家ジャック・ラカンの考え方を用いると、村上春樹自身が「エディプスコンプレックス」との関係を否定しているからこそ、「フロイト的なもの」が村上春樹に深く影響を及ぼしていると見て間違いない、と推定されます
そもそも、オイディプス神話とエディプス・コンプレックスの学説はメビウスの輪のようなものです。表面を辿り続けていくといつのまにか裏面へ入り込んでしまうアレです
エディプス・コンプレックスはオイディプス神話誕生以前から心の内奥に刻み込まれた欲動であり、その欲動の上に形作られ、語られたのがオイディプス神話だと考えるのが妥当です。なので、「エディプス・コンプレックス」の概念や言説を意図的に回避するとの設定はもとより不可能です。ただ、意図的に回避したというのは村上春樹が物語作成上、そのように心がけたという意味だと解釈します
(論文3ページ)
村上が「オイディプス伝説」と「オイディプス・コンプレックス」を峻別するのは、前者が「物語」の型であるのに対して、校舎は近代の「理論」にすぎないからという理由によっているが、村上自身の言葉とは別個に、客観的な地平で両者を比較すれば、その主たる差異は「父を殺し、母と交わる」という行為に対する主体の意識性の有無に見られる。つまりオイディプスは、青年期に至っても自分の故郷はコリントであると信じていたために、故郷に足を踏み入れてはならぬという神託の命じるままコリントを離れ、テーバイに向かうことになる。この時点でオイディプスは自分の本当の親が別にいることを知っていたが、当然ながら未知の父親に対する憎悪も未知の母親に対する性的欲求も不在であり、あくまでも状況に強いられた結果として、父を殺し、母と交わることになったのだ。
繰り返しになりますが、オイディプス神話を物語とするなら、エディプス・コンプレックスは人間の根源に脈打つ原初的な欲動です。神託とは芝居の脚本のト書きのようなものかもしれませんし、経済学者アダム・スミスの唱える「神の見えざる手」や、名探偵がくどくどと披露する推理のようなものでしょうか。人の運命を神の意志が操っているように映るのですが、それはあくまで人の無意識による行動選択の結果、です
オイディプスがコリントを離れ、テーバイへ向かったのも神託によるものではなく、彼の意識あるいは無意識による行動選択の結果でしょう
(論文4ページ)
さらにここでは「もうひとつおまけがある。『僕』には6歳年上の姉もいるんだけど、その姉ともいつか交わることになるだろうと父は言った」(第21章)とカフカ少年が明かすように、オイディプス神話にはない〈姉と交わる〉という一項が加わっている。そしてこの一項についても、カフカ少年は四国に向かうバスのなかで知り合ったさくらという年上の女性と、想像的な形であるにしても性関係をもつことによって現実化するのである。
この付加された一項も含めて、『海辺のカフカ』で示された予言とその成就には、それぞれ村上春樹の文学表現の系譜と緊密に呼応する意味が見いだされる。〈母〉と〈姉〉にともに交わることの意味については論の公判に言及することにして、まず主人公の現実の父である田村浩一が、その直接的な現場の描写を回避する形で殺害され、しかもそれがカフカ少年の代理的な存在によって遂行されることについて考えたい。村上が自身の着想をフロイトの言説から差別化しようとするのも、カフカ少年と父との関係にたいする把握から来ているといえるからである。
田村浩一の「お前はいつかその手で父親を殺し、いつか母親と交わることになる」との予言(さらに姉とも交わるだろう発言)にはさまざまな解釈があるわけですが、自分はこれを「父親の元を離れて、母と姉に会いに行け」という意味だと解釈します
理由は極めて単純で、15歳や16歳になると親から「ああしろ。こうしろ」と言われても反発し、逆の行動に走りだち、だからです
それを見越して、「母親や姉に会うな」と田村浩一が言っているのであり、真意は「会いに行け」だと自分は解釈します
主人公カフカ少年と父親田村浩一の関係は、小説ではっきりくっきり描かれてはいません。上記のように村上春樹が意図的にエディプス・コンプレックスの言説を回避しとうとしたため、父子関係は曖昧な形で提示するにとどめたのでしょう
ちなみにカフカ少年が四国へ向かったのは、四国=死国であり、いわゆる死の国で地獄めぐりをし、そこからの帰還するという、古より繰り返し語られてきた物語の原型を踏襲したからだと考えられます
論文の8ページから9ページにかけて、小森陽一著「村上春樹論ー『海辺のカフカ』を精読する」(平凡社選書)についての言及があり、小森による読み間違いを鋭く指摘しています(この本については当ブログでも取り上げましたが、おそろしく粗末な内容で読み間違いのオンパレードです)
村上春樹論
https://03pqxmmz.seesaa.net/article/200903article_5.html
では柴田論文に戻ります
(論文9ページ)
したがってこの場面においては、主体の比喩的な転移が起こっていることが分かる。つまり暴力を振るわれている中田少年とは、顕在化された性欲を否認されている〈岡持先生〉にほかならず、そのためこの場面の延長線上で五十年以上生きてきたナカタさんは、現在に至るまで性欲を知らず、異性に触れたこともないのである。そして「そこにいるのは私ではありませんでした」という自己の他者化とともに暴力の主体となった岡持先生は、「夫婦愛」を「国家愛」に優先させてはならないとする戦時下の価値観の具現化であり、象徴的にはその価値観の中心をなす軍の統率者としての〈天皇〉と等価である。ちなみに小森陽一もこの場面の背後に〈天皇〉が存在することを指摘し、「岡持先生の夫がフィリピン戦で死んだ本来の責任は、大元帥ヒロヒトにあるはずなのに、岡持先生が「中田君を叩」いたことに、その責任が帰せられているのですから、岡持先生の言説の内部においては、ナカタさんの位置は、昭和天皇ヒロヒトの位置と重ねられていることになります」と述べている。しかしこれは転倒した論理であるといわざるをえない。この場面とそれ以降の展開においてもっとも犠牲を強いられているのは中田少年ーナカタさんである以上、戦死した岡持先生の夫という犠牲者に比されるのは、当然ナカタさんでなくてはならない。(中略)
皮肉なことに『海辺のカフカ』は小森陽一がここに欠落していると見なしている主題の上に展開する作品であり、戦争とその責任者を告発する眼差しにおいては、村上はむしろ小森と〈同じ側〉に立っているのである。
小森陽一が読み違えたのは、彼が「自分の読みたいように読み解釈したため」でしょう
「海辺のカフカ」という世上で人気の小説をまな板に載せ、最初から切りまくってやろう(徹底的に批判してやろう)と取り組んだからではないか、と推測します
そのため天皇の戦争責任を告発する村上の仕掛けに気づかず、「母とセックスしようとする不道徳な駄作」と決めつけ、戦争の責任者を取り違えているなどなど、トンチンカンな指摘が「村上春樹論ー『海辺のカフカ』を精読する」の中で羅列されています
さて、長くなりましたのでここで一旦区切りとします
柴田論文は「ノルウェイの森」の直子、緑、レイコというヒロインの系列に「海辺のカフカ」の佐伯さんを加えようとする試みがあったりと、示唆に富んだ考察がなされています
なので、論文の後半部分については次の機会に言及するつもりです
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