「風立ちぬ」と「坂の上の雲」と二郎の苦悩

2020年に書きかけた記事を、そのまま放置していました。あまりにとりとめがなく、何を言っているのか分からない文章なので
ただ、放置していても仕方がないので、加筆・修正してアップします
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8月最後の金曜日、日本テレビ系の「金曜ロードショー」で「風立ちぬ」が放映されるためか、いくつのかのメディアに「風立ちぬ」を取り上げた記事が出ました
その多くは映画のレビュー程度のものですが、文春オンラインの藤津亮太による記事は一つの論評として中身がぎっしりと詰まったものです
アニメ評論家藤津亮太は現在、活発に批評活動をしている人物の1人であり、明快にして端的に物を言う批評、が持ち味だと思っています。しかし、文春オンラインに掲載されている「なぜ二郎は“苦悩”しないのか 『風立ちぬ』が描いたものの行方」と題した論評は、自分には要旨がつかめず、何度も読み返しました
前半部分は問題ないものの、後半は掴みにくくてて苦労し、おかげでこの記事も何度となく書き直し、加筆、修正を加えています
大雑把に括ると、藤津亮太による記事は「坂の上の雲」と「風立ちぬ」がどのように近代化を描いているのか、という比較検討です
いつものように論評の中から自分が恣意的に抜き出し、赤字で表示します。自分のコメントは黒字で表示します。

なぜ二郎は“苦悩”しないのか 『風立ちぬ』が描いたものの行方
宮崎駿監督は、編集者・音楽評論家の渋谷陽一が『風立ちぬ』について「この映画は、戦争が大きなテーマになっているんですけども」と問うたのに対して、「戦争そのものじゃないですけどね。モダニズムですよね」と答えている。この「モダニズム」は『風立ちぬ』を理解する上で重要なキーワードだ。

インタビューした渋谷陽一はおそらく宮崎の「戦争ではなくモダニズム(近代化)がテーマ」だとする説明を聞いても、おそらく理解できなかったのでしょう。そもそもモダニズムが何を意味しているのかさえ、想像できなかったと思われます
インタビューして宮崎駿に直接質問したら、懇切丁寧な説明が返ってくるなどという約束は存在しないのであり、答えたいことしか返してこないのが当たり前です。それで理解できないのならインタビューした側の準備不足・理解力不足・基礎知識の不足というほかありません
要するに宮崎駿にとっては戦争をテーマとした作品ではなく、反戦平和を訴える作品でもなく、モダニズムが人を社会をどう飲み込み翻弄していったのか、翻弄されつつもそこで人(二郎)はどう生きたか、を描きたかったと答えているわけです

(前略)
『風立ちぬ』の2つの“決まっている行く末”
しかも『風立ちぬ』は、その「近代化の破産」を無言のうちに前提に物語を進めている。それはいずれ起こることとして“決まっていること”として描かれている。
この決定論的な語りは、幼い二郎が夢の中で、カプローニの飛行機が街を焼く様子を「これから起こること」として幻視してしまうシーンから一貫している。軽井沢で会った外国人カストルプが「(軽井沢は)忘れるに、いいところです。チャイナと戦争してる、忘れる。満州国作った、忘れる。国際連盟抜けた、忘れる。世界を敵にする、忘れる。日本破裂する、ドイツも破裂する」と語るシーンも、あたかも“予言”のようだ。
またそこと軌を一にするように、二郎が愛した奈穂子が結核で死ぬのもまた「避けられない出来事」として描かれる。奈穂子はプロポーズを受ける段階から既に自分の命が短いことを自覚している。「人生には選択肢などなく(あっても大差なく)、人生はそこで精一杯生きることしかできない」という、決定論を前提としたある種の諦観が本作の根底にある。
どうして『風立ちぬ』はこれほどまでに決定論的なのか。それはこの映画がやはり「近代化」が主題だからなのである。
二郎というキャラクターに寄り添っているように見えながら、本作ははるかに遠いところからキャラクターたちが生きる様を見ている。そこから見ると、二郎もカプローニも同じような存在であり、彼らが人生をいかに選択しようが、国家が近代化する過程で帝国主義が台頭する以上、戦争は避けられない。個人が賛成しようが反対しようが、そのような歴史の必然たる枠組みは変わらない。

(前略)の部分で筆者は司馬遼太郎の「坂の上の雲」を引き合いに出しているわけですが、それが宮崎駿が「近代化(モダニズム)」を作品のテーマにしたとするインタビュー記事から連想し、近代化の中の日露戦争を描いた「坂の上の雲」との対比を筆者が思いついたからでしょう
「坂の上の雲」は司馬遼太郎の作品の中でも「花神」と同じカテゴリーに含まれ、テクノロジーと軍隊の近代化⇒社会の近代化という視点から歴史をとらえなおそうとした小説です(それまでの歴史小説の書き方というのは個人の言動を中心にし、いわば英雄豪傑の武勇伝にすぎないものだったわけです)
先に「花神」を考察すると、周防の村医者のすぎなかった村田蔵六が蘭学を手がかりに、西欧式軍隊(武装だけでなく軍隊組織の在り方、用兵の技術、理念まで)を具現化し、テクノロジーの革新によって政治を動かし、社会を変革する様を描いています。その中で西郷隆盛と村田蔵六を対比させ、西郷は日本全国を巻き込む戦争を繰り広げ、国民を焦土の中に叩き込んでこそ古い社会から脱却して近代化へと進むことができるとの主張を展開します。村田蔵六は技術を駆使して戦争をできるだけ速やかに終わらせ、新たな国造りに取り組むべきだと主張します(維新という内戦状態を早く終わらせ、外国勢力の介入を防ぐ、という狙いもあります)
こうした発想の違いを表現することによって、読者も歴史を読み解く複数の視点を獲得できるところが、司馬遼太郎作品の奥深さでしょう(従来なら大西郷の偉人伝として、彼の言動だけを際立たせるのが歴史小説の書き方でした)
ちなみに西郷隆盛も西南戦争で死亡し、村田蔵六(大村益次郎)はそれよりも前に浪士に殺害され、明治政府は2人が思い描いたのとは別物として組み上げられていきます
「坂の上の雲」も、戦争を遂行する軍人の思惑、政治家の思惑、世論の動向など、いくつもの視点から日露戦争を描こうとし、日本の帝国主義化とその暗い未来を暗示しています
さて、引用した部分に話を戻します
この場合の決定論とは、未来(将来起こり得るできごと)は、現時点での因果関係で規定されてしまっているとの意味でしょう
「坂の上の雲」からすれば、日露戦争は国家の存亡を欠けた総力戦へと拡大し、それが大きな犠牲と負担を国民に強いるものであると示したわけです。総力戦という激しく長い戦争をすれば、国は決して豊かにはならず、国民は窮乏し社会が不安定になる…と
そのような因果関係があると分かっていて、日中戦争から太平洋戦争へと戦場を広げ総力戦に踏み込む愚かな選択をしたのが日本の軍部です

『風立ちぬ』公開時に、二郎が「戦闘機を作ることを通じて戦争協力していることを、どう考えているかが描かれていない」という指摘があった。その指摘は確かにその通りだが、それは本作が「日本の戦争」を描こうとしていないからだ。
「近代化(とその破産)」が大枠である以上、個人個人がどう思おうと「近代化の過程で戦争は起きる」という前提は変わらず、だからこそその大きな視点を際立てるために、人間の内面の葛藤や良心の呵責には関心を払わないのである。そしてそのような状況をニヒリズムでもなく、露悪趣味でもなく淡々と描き出したのが『風立ちぬ』なのである。

明治以降の文学作品では「近代人の葛藤」というのが重要なテーマでした。近代的な教育を受け、素養も知識もある若者が日本の旧弊そのままの社会で生きることの困難さ、閉塞感を小説にしたりと
その流れからすれば二郎は近代人として大いに苦悩し、迷い、逡巡しなければならないわけです。軍という異質な集団との対立、会社という組織の中の自分、などなど苦悩する要素は多くあります
ただ、藤津の指摘するように「戦争を描こうとしないからだ」では説明になっていません。戦争へと向かう世間の空気はそこかしこにあるのですから、戦争が中心となるテーマではなくとも、戦争の影響は切り離しては物語は成立しません
ただ、二郎の中での戦争は歴史絵巻的な戦争(総体としての戦争)ではなく、航空技術の戦いというテクニカルなイメージではなかったのか、と想像します。なので二郎にとっての戦争は人の生き死にではなく、技術的な優劣として認識されており、良心の呵責とか内面の葛藤などという情緒的な部分とは異なる次元で認識されていた、と自分は考えます
戦闘機が戦争の道具であるというのは当たり前の話で、優れた戦闘機を開発することを使命として受け入れている技術者が、真珠湾攻撃とかミッドウェー海戦など、個々の戦闘で一喜一憂などしていられません。むしろ、戦闘機を開発しながら戦争に心を乱し、苦悩し、泣きわめく技術者がいたなら、そちらの方が異常でしょう
近代化=戦争、との図式がどうであれ、二郎は哲学者ではありませんし政治家でも人権活動家でもなく、技術者ですから技術の探求が優先するのはごく自然な成り行きです

なぜ『風立ちぬ』は“美しい映画” なのか
『風立ちぬ』において飛行機が「美しくも呪われた夢」と矛盾を孕んで表現されるのも、『もののけ姫』が象徴的に描いた「近代化」とその問題の果てにあるものだからだ。工業化を背景にした近代国家の成立、そしてその結果としての戦争。人はこの大きな枠組みの外に出ることはできない。
そして『風立ちぬ』は、その枠組の中で右往左往する人間を描いた作品なので、視点が非常に大きいところにある。視点があまりに大きいから、二郎の葛藤や良心の呵責を描いても、そこには大して意味がない、ということになるのだ。逆にいうと二郎の心理に寄れば寄るほど「日本の戦争」を描いた作品になり、「近代化(とその破産)」という大きな枠組みは見えなくなってしまう。
その点で『風立ちぬ』は、二郎を「当時の時代の中で生きた人として描いた」というより、「敗戦という結果が出た現在から導き出される大きな視点の下に描いた」といったほうがふさわしい。ただし愛情を持って。そしてそのマクロとミクロのバランスが絶妙なので『風立ちぬ』はとても美しい映画として完成したのである。

決定論だ、と藤津は繰り返し書いているように、「風立ちぬ」は敗戦という結果から遡って戦時下の人たちの生き様を描いており、定められた結末に向けて人々は生き、死んで行きます
そうした描き方が正しいとか、間違っているとか意見はあれど、宮崎駿にはそうした描き方しかなかったのですから、作品そのものが答えであり、彼の主張と解釈するしかありません
「風立ちぬ」の公開を巡り、韓国では反対を唱える声が多くありました
「零戦の開発者として戦争協力者として二郎は己の所業を恥じ、韓国国民に謝罪を表明しなければならないのにそうしなかった。腹が立つ」というのが韓国の反応です。ひろゆき風に切り取るなら、「それってあなたの感想ですよね」となります。映画に対する感想ではあるものの、作品の本質を読み誤り、自分たちが期待した結末になっていないとゴネているだけでしょう
彼らには「美しい映画」であることが理解できません。理解を拒絶しているのですから

映画としては美しくとも、映画の中で切り取られた二郎の生き方を「時代の中で精一杯生きた」とだけシンプルにまとめてしまうのはとても危うい。「精一杯生きたからしょうがない」と「時代に流された」の間にはどのような境界線があるのか。
『風立ちぬ』では「近代化」という枠組みと、二郎の“芸術家”としての「業」を強調したことで、その境界線が見えなくなっている。現実の「未来」は、「近代化」の枠の中にあったとしても、さまざまに変えられる部分を秘めた可塑的なものだ。
作中で二郎はポール・ヴァレリーの詩を口にする。
「Le vent se lève, il faut tenter de vivre 風が立つ。生きようと試みなければならない」
現実の中で「生きようと試みる」ということは映画の中の二郎の振る舞いとは遠く、自分の中にある「文化的無気力、無自覚、無反省、無責任」といったものに抗っていくことだと思う。映画が公開された2013年よりも現在のほうが、その意味は重くなっている。

ポール・ヴァレリーの詩を堀辰雄は翻訳し、「風立ちぬ、いざ生きめやも」としたのですが、これが誤訳であったという話は繰り返し指摘されています。が、誤訳であろうと堀辰雄はそう読み、解釈したのですから、堀辰雄の文学表現としては「風立ちぬ、いざ生きめやも」なのです
それが文学的創造です
同じように、宮崎駿が堀辰雄と堀口二郎という2人の人物を重ね合わせ、これを歴史の上に投射したのが「風立ちぬ」であり、つまりは宮崎駿の文学的創造です(アニメ的創造と言い換えても可でしょう)
冒頭、司馬遼太郎の「坂の上の雲」を引き合いに出して語るのはどうなのか、と異論を提起したわけですが、言うまでもなく司馬遼太郎と宮崎駿とでは見ている景色が違うのであり、そこで語られる物語も違ってきます
モダニズムと戦争による社会の変容や、人々のあり方の変化をどう物語として語るのか、司馬遼太郎と宮崎駿はそれぞれの選択をしたのであり、どちらが優れているか、劣っているかという話ではありません。

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