エヴァンゲリオンは境界例 精神科医斎藤環
「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」の公開にあわせて、さまざまな論評を取り上げてきました。最近は注目していた刑事事件の裁判やら、新たな事件の方に時間を取られて、間が空いてしまいましたが、今一度エヴァンゲリオンについてあれこれ語っておこうと思います
有名な論客、文化人から無名のライターや個人のブログまで、エヴァンゲリオンを取り上げた言説が数多く存在し、そのまま埋もれされておくのはもったいない気がします。そして、自分が何を思い、感じ、考えたのかを日記風に書き留めようとの意図もあります
今回は精神科医ながらサブカルチャー関連の著作、発言も多い斎藤環のnoteから引用します。引用文は赤字で、自分の発言は黒字の表記になっています
エヴァンゲリオン -空虚からの同一化-
まずはっきりさせておこう、「自分探し」など徒労に過ぎない、ということを。
精神分析、とりわけフロイト/ラカンの教えによれば、人は「語る存在」であるがゆえに、癒やされない欠如を抱えている。人は自らを語りつくす言葉をけっして手にすることはない。人は他者の言葉のネットワークの中に「存在させられる」、それだけだ。そしてここから、精神分析がはじまる。
「新世紀エヴァンゲリオン」(以下「エヴァ」)というアニメーション作品がすぐれているのは、まずこの点だ。主人公・碇シンジの「自分探し」は、結局それが想像的に——つまり擬似的に——解消されるか、あるいは探す行為そのものを放棄する以外には終わりようがないということが、とてもリアルに示されている。だからあの最終二話は、あそこに、あのように置かれるしかなかったように見えるのだ。
自分はラカン派の精神分析を学んできたので、この冒頭の斎藤環の言を引用したくて取り上げた、というのが実際です
上記の文は「エヴァンゲリオン」TVシリーズの完結後に書かれたものに、後日加筆された形です。なので、基本は1990年代中頃の空気を反映しています
「人は自らを語りつくす言葉をけっして手にすることはない」を言い換えれば、碇シンジを、あるいはアスカやレイを語りつくす言葉を手にすることはできないのであり、アニメーションという表現技法についても同じでしょう
ゆえに、庵野秀明は幾度もエヴァンゲリオンの物語を描き重ね、けっして届かないところへ至ろうと足掻き続けるわけです
庵野氏によれば「分裂病が判るのは分裂病だけ(「Quick Japan」96年10月号)」とのことだが、この表現はむしろ「境界例」にこそよく当てはまる。「境界例」は「ボーダーライン」「境界性人格障害」などとも呼ばれ、分裂病と神経症の境界線上の病気というのが本来の意味だ。不安定な気分と対人関係、手首自傷などの激しい「行動化」が特徴で、いつも自分の空っぽさに悩まされている。だから孤独に耐えられず、他人との関わりを求めるあまり、はた迷惑な行動に走る。そのつもりがないのに周囲を挑発せずにはいられない。またそれが本人の魅力でもあるため、まわりの人たちも容易に巻き込まれる。彼らは自らの中心が空虚であるというイメージに敏感で、空虚の埋め合わせに他人のイメージを参照・引用-つまり「同一化」-しながら自分を支えようとする。
上記のような「境界例」(ボーダー)が今日、話題にされる機会は皆無といえるのでしょう。当時は、何が「境界例」なのか、少年鑑別所に勤務していた自分の周りでは真剣に議論されていた時代でした
若手の心理技官が家庭裁判所に提出する鑑別結果通知書に「境界例」という概念を盛り込もうとし、他方でベテランの心理技官でもある鑑別所長は「境界例」が一般的に受け入れられ確立された概念なのか、そうでないのならば公文書である鑑別結果通知書で使うべきではない、との考え方でした
その流れでとらえるなら、現代は「発達障害」の時代であり、少年犯罪は発達障害に関連付けられて語られるのが大勢であるといえます
「境界例」的な作品は、そのリアリティを「作家の人格」によって支えている。テクストの表層的な多彩さにも関わらず、物語宇宙の広がりは、作家自身の内面世界とぴったり一致する。作品への関心は、そっくり作家本人への関心と重なる。だからフィクションとして発表されたものが、作家自身の体験としばしば混同されたりする。作品のいたるところに、生身の作家自身が顔をのぞかせている。つまり「境界例」的な作品は、本質的にメタ・フィクションなのだ。「同一化」によるメタ・フィクション。
「エヴァ」では登場人物が、自らの外傷と葛藤についてきわめて饒舌に語る。人物の語りは庵野氏自身の肉声へと容易に転調し、語りのコンテクストが切り替わる。「境界例」の治療場面でも、クライアントに乗せられるようにして、いつのまにか治療者が個人的告白をさせられていることがよくある。「境界例」はその饒舌によって、自らの治療場面すらもメタ・フィクション化せずにはおかないのだ。「エヴァ」最終二話におけるメタ・レヴェルは、こうした「境界例」的構造のもとでこそ臨床化されうるだろう。
作中人物の語りが庵野秀明の肉声に取って代わり、逆に庵野秀明の語りがシンジやゲンドウの肉声に取って代わる。「同一化」とはそうしたものです。さらに視聴者はシンジの語りをいつの間にか、自分の語りであるかのように受け止め、シンジの体験を己の体験であるかのように受け止める…
「エヴァンゲリオン」の物語が高い支持を得たのも、「同一化」の働きがあったからとの説明が成り立ちます
ただ、そうした「同一化」を無批判に受け入れるのは注意が必要です
上記の文では「同一化」と表現されていますが、精神分析用語では「転移」と説明されます
クライアントに口を開かせ語らせようとするあまり、分析者がペラペラと自身の体験を語り初めるケースも、「転移」の作用です。分析家は「転移」について強く警告され、分析家は語る主体ではなく空無の記号であるべきとされます。つまり、一方的に臨床家ばかりがしゃべるようなやり方は失敗であるとみなされます
若いカウンセラーにありがちな傾向です。自分は経験があり、話がわかる人間だとアピールしたく、クライアントよりカウンセラーがペラペラしゃべって終わり、というケースです
クライアントは自身の経験、悩み、問題を聞いてもらうため臨床家の許へ足を運ぶのであり、そこで臨床家の経験やら他人の話を聞かされても何の解決にもなりません
庵野氏は自らの空虚さを媒介にして、オウムをはじめとする同時代的な危機意識に見事にシンクロし得た。そのなみ外れた同一化能力が、作家としての「境界例」性に起因するものであるなら、筆者の関心はやはり庵野氏の次の物語に差し向けられる。そこには確実に「境界例の治療論」へのヒントが胚胎するはずだ。
一般的には評価の高い「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」ですが、「境界例の治療論」へのヒント足り得るのでしょうか?
上記のように「エヴァンゲリオン」の物語はけっして語り尽くす言葉は得られないものですから、完結という形で終わりにするのは可能であっても、語り尽くされた形にはなりません
それでも原作者である庵野秀明の権限によって、「完結した」と宣言はできます
が、治療の完結にはならないのは明らかでしょう
境界例であろうと発達障害であろうと、生きている間はその症状と向き合う必要があり、けっして終わりはないのです
同様に、「エヴァンゲリオン」も終わらない物語と言って過言ではないと思います
(関連記事)
「エヴァンゲリヲン新劇場版:Q」を振り返る
エヴァンゲリオン 少年は神話になったのか?
マスク拒否男 エヴァに乗りそこねたシンジ君
「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」 真っ直ぐな生き方を問う
「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」 シンジとゲンドウの和解
「エヴァンゲリオン」 精神分析と思春期理解
「エヴァンゲリオン」を巡る言説 賛否の行方
大塚英志 「エヴァンゲリオン」を語る
エヴァンゲリオン 家族を問う物語
「エヴァンゲリオン」 若者の承認欲求
「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」の爽快感と疎外感
「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」という「終わりの物語」
「エヴァンゲリオン」 14歳の自意識
なぜエヴァンゲリオンは若者の心をとらえるのか?
押井守監督の「エヴァンゲリオン」批判を考える
「アニメはオタクの消費財と化した」と指摘した押井守
「新世紀エヴァンゲリオン」を世界はどう観たのか?
「14歳のエヴァは終っていない」 酒鬼薔薇聖斗のエヴァンゲリオン
エヴァンゲリオン 14歳のカルテ
エヴァンゲリオン 14歳のカルテ(2)
「エヴァンゲリオン」に言及した他の記事は、本文右のテーマ別記事で「エヴァンゲリオン」をクリックすると表示されます