劇場版「機動警察パトレイバー2 the Movie」と二・二六事件
国会前にSEALDsと、彼ら彼女らを支持する高齢者が集まって騒いでいたのが随分と昔のように感じられます
いわゆる安全保障関連法案に警鐘を鳴らす抗議行動だったわけですが、そもそも彼ら彼女らが安全保障というものを理解して運動していたのか、自分には疑問でした
上部だけの、ポーズとしての戦争反対を叫んでいる風にしか見えなかったからです
さて、今回は藤津亮太の論評「『機動警察パトレイバー2』が示した『平和という言葉がウソつきたちの正義』にならないために必要なこと」を取り上げます。アニメーション作品論から逸脱しますが、関心のある方は一読願います
ウェブサイトでは3ページに分割されて掲載していますが、最初のページは劇場版「機動警察パトレイバー2 the Movie」のテクニカルな表現様式について語ったものなので、2ページ目からが本題です
『機動警察パトレイバー2』が示した「平和という言葉がウソつきたちの正義」にならないために必要なこと
世界の随所に戦争は存在する。そこからは誰も無縁でいられない。それは冷戦構造の庇護の中で平和と繁栄を謳歌していた日本人には見えていなかった現実だ。その現実に直面した柘植は、誰も死なない「戦争状況」を演出することで、東京という町に「戦争」というものが存在する現実を思い知らせようとしたのだ。柘植は「戦争というものと無縁ではいられない」という現実主義に立脚し、そこに目を背けた「平和」という理想主義を撃つのである。冷戦後の「戦争」や「平和」といった価値観が揺れる瞬間に、そういうかたちで日本の戦後を論じたのが、『パトレイバー2』の尖った部分だというふうに広く受け止められている。
なお、ここでいう現実主義は、国際政治のそれではなく、「現実を最重視する態度。理想を追うことなく、現実の事態に即して事を処理しようとする立場。リアリズム」(『デジタル大辞泉』)という意味合いで使っている。
戦争と平和が相対する位置にあるというのは思い違いであり、だからこそ戦争か平和かという二元論は成立しません
「日本には平和憲法があるから戦争には加担できない」とか、「憲法は戦争を禁じているのだから、日本が侵略されようとも武力でもって闘うのは間違いだ」などという主張が当たり前のように繰り返されています
が、どれも戯言にすぎません
おそらく大学の憲法学の講義ではいまでも、上記のような平和憲法を護符であるかのように掲げ賛美する話が繰り返されているのかもしれません。そしてこの作品が公開された当時は、そうした平和憲法論が当たり前のように受け取られていました
が、現実問題として日本が侵略されれば自衛隊が防衛出動するのでしょうし、「自衛」という名目で戦闘を開始するでしょう
憲法の条文は制定以来変更されていないものの、現実とはそうしたものです
最近の調査でも、憲法改正に反対する人が過半数を占めています。先の安全保障関連法案に、大学で憲法を教えている学者たち300名あまりが反対を唱えていたのには驚き、失望したものです。作品公開時から四半世紀が経っても変わらないのですから
二・二六事件の青年将校たちの姿にも重なる
しかし、本当に柘植は「現実主義」なのだろうか。というのも、柘植はその作戦で「戦争状況」、つまり「概念」しか示さないのだ。柘植を追う陸幕調査部別室の荒川は日本の平和を「平和を得るために正当な代価をよその国の戦争で支払っている」と評するが、もし本当に現実主義に徹するなら、朝鮮戦争から湾岸戦争に至るまで、日本がいかに「正当な代価を払ってこなかったか」が論じられるべきだし、「今、正当な代価を払うということがどういうことか」が具体的に語られるべきなのだ。それは平和学研究者・伊勢崎賢治のいうような、自衛隊のPKF(国際連合平和維持軍)参加におけるある種の欺瞞を撃つようなかたちになるかもしれない。
もちろん、これらは現実の政治の問題であって、それらが入り込んできたら映画が論文になってしまい、映画ではなくなってしまう。つまり、映画が映画として成立するために、柘植は「戦争という概念」だけを提示するに留まった、というふうに考えることができる。そして「具体性を欠いた現実主義者」となった柘植は、つまり理想主義者に見えるのだ。「理想主義者」がその理想に基づいて実力を行使する、というふうに考えれば、柘植の姿は、二・二六事件の青年将校たちの姿にも重なって見えてくる。
「柘植の姿は、二・二六事件の青年将校たちの姿にも重なって見えてくる」というのが悲しくも、偽りのないところでしょう。二・二六事件の将校たちも自分たちが決起し、首相ら政府に巣食う奸臣を討伐すれば、あとは真崎甚三郎陸軍大将なり荒木貞夫陸軍大将なりが事の収拾を図り、天皇親政による昭和維新が成ると信じていました。しかし、真崎甚三郎も荒木貞夫も彼らが理想とする大人物などではなく、いざという場面では保身に走る小物でしかなかったのです
青年将校たちが勝手に軍を動かし、政府要人を殺害したことに昭和天皇は激怒します。その怒りを前に真崎も荒木も青年将校たち擁護のために動けず、陸軍内部の主導権争いにも破れ、青年将校たちは犯罪者として処断されてしまいます。真崎も荒木も太平洋戦争集結後まで生きたわけですが、二・二六事件の青年将校たちに殉じることもなしに生き延びた変節漢・卑劣漢として批判されました
柘植とその仲間たちも、東京を舞台に戦争を演出する役を演じた道化でしかないのであり、犯罪者として扱われるだけなのでしょう。彼らの主張を引き継いで安全保障問題に昇華し政治問題化してくれるような政治家がいるようにも思えません
いかに不正義の平和を糾弾しようとも、世間一般は不正義の平和に飼い慣らされ、当たり前のように享受しているのですから、柘植達の叫びが届いたりはしません
「はねっかえり」の自衛隊員が暴発し、多大な被害を与えた事件という形式的な扱いで終わり、彼らの主張などなかったことにされるのです
その意味では「機動警察パトレイバー2 the Movie」は悲しい物語です
加えて、陸幕調査部の名刺の男、荒川茂樹も同志と信じた柘植に裏切られ、捨て置かれたまま柘植が行動を起こすという憂き目に遭っており、何とも言い難い哀愁が感じられます(声を担当した竹中直人の怪演が光るゆえ、より荒川の立ち位置が哀れに映ります)
後藤に対して偽りの平和がどうのこうのと語る荒川なのですが、それゆえ柘植は荒川を信用していなかったのでしょう。柘植と荒川は計画段階で手を組んで吐いたものの、違う風景を見ていたに違いありません
この作品については、また機会を見て取り上げるつもりです
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