攻殻機動隊とエヴァ:近未来の「自由」とは

アニメーションの世界が現実社会より1歩、2歩先の未来を描くのは珍しくないのですが、その近未来社会の有り様や価値観、倫理観まで踏み込むのは設定が大変なので敬遠されがちです。もちろん、「ガンダム・シリーズ」のように詳細にして複雑な設定の上に物語を展開する作品もありますが
未来のテクノロジーの上に複雑な社会状況、政治状況を設定して開陳されるハードなSF小説は珍しくないものの、それは固定された読者層があってビジネスとして成り立つからでしょう。アニメーションもビジネスですから、設定に凝りすぎて視聴者がついてこれなければ打ち切りとなります。なので、あまりに尖った世界観の上に成立するような作品は企画段階でボツになっているのかもしれません
ともあれ、近未来を描いた「AKIRA」、「新世紀エヴァンゲリオン」や「攻殻機動隊」といったハードな作品が日本で作られ、ビジネス面でもそれなりに成功を収めたのは驚くべき事例でしょう
今日は「旅人」さんのnoteに掲載された記事を手がかりに、近未来における自由、自我について考えてみます

攻殻機動隊と新世紀エヴァンゲリオンの社会学的考察:〈自由〉の条件

新世紀エヴァンゲリオン最終話(第26話)『世界の中心でアイを叫んだけもの』は、賛否両論があったものの、当時のアニメーションの常識を覆す画期的な脚本だったことは間違いない。この副題は、ハーラン・エリスンのSF小説『世界の中心で愛を叫んだけもの』(The Beast that Shouted Love at the Heart of the World)からとったものだが、エヴァンゲリオンのほうの“アイ”とは、“愛”ではなく、英語の“I(私)”のほうだと思われる。この最終話では、不自由が与えられることによって逆説的に、「自由」の牢獄から解き放たれるための条件である〈自由〉が生まれるという機制が、そして他者との関係の中でこそ“I(私)”を叫ぶことのできる、自由な主体たる自我が形成されるということの一つの“可能性”が描かれている。このアニメの登場人物たちは、他者との関係構築(即ち、〈自由〉の獲得)に失敗している者たちばかりだ。例えば、“人類補完計画”とは、他者との関係を補完することで〈自由〉を取り戻す為の計画と見ることもできる。「新世紀エヴァンゲリオン」は大きな社会現象を巻き起こしたアニメだが、その理由の一旦は、当時の世相を捉えた、自由に関する鋭い問題意識の内にあるように思う。

近代文学は自分が自分であるという「近代的な自我」を描くのを主眼としています。自分が自分であるというのは、封建社会から抜けだたもののまだ制約が多い近代社会の中で、就職や結婚など、自分のことを自分で選択し決定できる権利を手にするという意味です
現代を生きる我々にとって当然とされる選択の権利(自由)ですが、当たり前のように享受できると決めてかかるのは誤りで、簡単に失いかねない危険をはらんでいます
それが顕在化しているのが移民問題でしょう。生きるために豊かな国へと移民する人たちがいる一方、自分たちの生活を守るために移民を排除しようとする動きがあります。移民しても、職業選択で制約を受けたり、居住や教育で制約を受けるのもしばしばです
日本はいまだ豊かな社会ですが、「日本沈没」のような事態があれば第三国へ移民して生き延びなければなりません。世界各地で起きている移民をめぐる対立は決して他人事ではないのです(我々の享受する自由も簡単に失われる可能性があるわけです)
さて、話を戻して「近代的な自我」とは、その他大勢の中から自分は自分であると個を確立することです。その他大勢の中に隷属している限りは、他者と自分を区別する他我の問題は生じません。個の確立のためには他者との関係をどうとらえ、調整するか、結託するか、離反するか、追従するか、さまざまな選択を迫られます

エヴァンゲリオン最終話の到達点からさらに踏み込んだ部分が、後半の、タチコマが見つけた謎の「箱」に関する物語だ。好奇心からその「箱」に接続を試みた時に、タチコマが「箱」から受けとったメッセージが、「君は僕、僕かつ君たち」である。物語の後半で、この謎の箱は、“防壁”のない、とある映画監督の電脳であることが判明する。“防壁”とは、電脳を守るファイアーウォールの事だが、これは他者と自己とを分ける絶対不可侵の境界でもある。「新世紀エヴァンゲリオン」においては“A.T.フィールド”がそれにあたる。ところで、「君は僕、僕かつ君たち」が含意するメッセージとは、他者が〈自由〉の条件(自我の条件)であるのみならず、自分そのものである、ということだ。「新世紀エヴァンゲリオン」の“人類補完計画”とは、全人類を単一生命体とすることだが、似たようなテーマは「攻殻機動隊」でも繰り返し、描かれている。自己が他者である、ということ。付言しておくと、社会科学を学んだ人であれば分かると思うが、もしこれを少しでも認めてしまえば、今現在、存在しているほとんど全ての社会科学の理論が依拠している前提が揺らぐ。

デカルトに代表される近代の科学理論の前提であるところの、自分が考えていることを自分自身は疑うことができない(我思う、故に我あり)を引き合いにすれば、他我との境界の喪失は重大な問題です
「エヴァンゲリオン」に登場するゼーレの人類補完計画はまさに全人類を単一の存在、神の子に戻そうという計画だったようですが、それが正しいのかどうかはさておき、よくもアニメーション作品の中に登場させたものだと呆れます
先に書いたように、近代的な自我の確立というのがこの時代のテーマであり、個人の自由が重んじられてきたわけです。個人の自由に逆行する人類補完計画を堂々と掲げるアニメーションなんて、共産主義国の中国でも作れないのでは?
上記の引用部分で「似たようなテーマは『攻殻機動隊』でも繰り返し、描かれている。自己が他者である、ということ」書かれているのを憶測すれば、劇場版「GHOST IN THE SHELL」 の人形遣いと呼ばれる情報の海で発生したゴーストを持つ生命体が草薙素子のゴーストと融合する場面が思い当たります(TVシリーズではないので、当たっているのかどうかは分かりませんが)
ただし、草薙素子はトグサを公安九課にスカウトした理由として、同じ規格で揃えた組織の脆さを挙げ、構成員の個性こそが組織の強さである旨の発言をしていますので、皆がドロドロに溶けて1つになることが必ずしも理想であるという考えに占められているとは思えません
草薙素子は何よりも強烈な個人主義者です

“トラップでもハッキングでもなく、自分の作品の魅力によって訪問者を帰さない”箱が見せた映画(夢)とは、「君は僕、僕かつ君たち」であるような世界だったのではないか。しかし、他者は〈自由〉の条件であるにしても、他者の夢に没入しきることは「死んだも同然」と言う主人公の言葉の裏に、さらにもう一段階踏み込んだ、そこから飛翔する「自由」への可能性が示唆される。「個」を取り戻す為の、その答えは、攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX 第26話(最終話)で示されている。〈自由〉と「自由」を一渡り旋回し、上昇していくイメージを得ることができる。

タチコマが闇市で手にした電脳の中に入っていた映画監督の夢が、具体的にどのようなものであるのか自分には分かりません
ここでは映画監督の夢ではなく、草薙素子に置き換えて考えてみます
「攻殻機動隊」の少佐こと草薙素子は高性能なサイボーグのボディを与えられており、最高のメンテナンスを受けて機能が維持されています。彼女が公安九課を辞めることは可能ですが、代償としてはその高性能なボディを取り上げられ、機密保持のため記憶の大部分を消去しなければなりません。記憶の大部分を失ったなら草薙素子は草薙素子ではなくなるでしょう
それでも草薙素子は公安九課を離れ、自由を手にする選択をします。記憶を維持したまま、高性能のボディをいくつも乗り換え、公安九課とは別の立場から社会にコミットするという、反則とも言える選択であり、ここは議論の分かれるところです。ただ、草薙素子が草薙素子としてあり続けるには記憶を手放せませんし、高性能のボディをいくつも乗り換えたり、メンテナンスを受け続ける必要があるのは自明ですから、そのための手立てを尽くす…というのはあり得る選択肢でしょう
公安九課を離れる覚悟とその後の行動は、いわば他人の夢の続きを眺めるだけの生を拒絶し、自身の物語を紡ぐ行為でしょう。それは自分が自分であることの証明と言えるのかもしれません
ネットの中に溶け込んで個を喪失するのではなく、ネットの中にあっても個であり続けようとする強烈な意志を感じます。草薙素子の強烈な個性、自分が自分であることを決して手放そうとはしない覚悟が、他我の境界があいまいになりつつある近未来の電脳社会においても際立っており、作品に一本筋が通っていると感じさせるのです

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