「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」 真っ直ぐな生き方を問う
現代ビジネスに掲載されている評論家杉田俊介の、「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」に言及した評論を今回取り上げます
杉田評論はゲンドウの描かれ方、そして彼の生き様を主眼として展開されます
数学の研究者にとって大事なのは難問を解き、証明することではなく、「問いを立てる」ことだと聞ききました。つまり、何が問題であるのか問いを定式化し、提示する能力が大事だという話です
アニメーションであれ、文学作品であれ、単に「面白かった」とか「つまらない」などと感想を述べるのではなく、作品から何を読み取り、何が問題であるのか「問いを立てる」ことが重要なのでしょう
『シン・エヴァ』、私たちは「ゲンドウの描かれ方」に感動するだけでいいのか? 根本的な疑問
誰よりも「チルドレン」なゲンドウ
単純な点だが、次のことを確認しておこう。以前から書いているように(拙著『戦争と虚構』等を参照)、私は『エヴァ』シリーズの中心には、息子のシンジよりも父親のゲンドウがいると考えてきた。
『エヴァ』の世界では、基本的に大人たちが十分に責任を取らず、子どもたちに責任を押し付け、利己的な陰謀に走り、代理戦争を戦わせているのであり、だからこそ、この世界の根本問題が永遠に解決しない(もちろん作中の設定がそれを強いているわけだが、それにしてもやれることはもっとあるはずだ)。その点をもどかしく感じてきた。
ゲンドウは、職場(組織)のネルフでは厳格に冷徹に行動し、シンジやレイを道具のように扱ったりと、愛人の心身を搾取したりと、身勝手な大人にみえる。エヴァに乗るチルドレンの条件は「母親を喪失した14歳の子ども」とされていたが、誰よりもメンタル的に「チルドレン」(ガキ)であるのはゲンドウだった。
ゲンドウの究極の「願い」は、ゼーレの人類補完計画を利用して、かつて実験の失敗で死んだユイ(妻であり代理母でもある女性)を復活させ、一体化することにあった。妻=母なしには生きられず、社会的な他者たちとろくにコミュニケーションも取れないこと、それがゲンドウの根本的な「弱さ」だった。それはよくある未熟で利己的な母胎回帰願望と見分けがつかない。
今回この杉田評論を読んでいて思ったのは、自分たちが過剰なまでにシンジやアスカ、あるいはゲンドウやミサトに対して真っ直ぐな生き方を要求してきたこと、これに尽きます。真っ直ぐ生きること、自分らしく生きること、自分を曲げないことは理想とされ、それはそれで正しいと評価され価値があると認められているわけですが、本当にそうなのかと
現実社会の中で自分たちは必ずしも真っ直ぐ生きられるわけではないのであり、そこではさまざまな衝突、挫折、葛藤、苦悩がつきまといます
そして中学生の自殺を報じる記事が頭に浮びます。いじめに遭い、不登校になった彼女は自殺を選ぶ…
「逃げちゃダメだ」というのはエヴァンゲリオンの物語の中でも特に有名な台詞でしょう。ただし、逃げないという選択肢が本当に最適解なのか、という疑問がここで湧きます。いじめに遭い、不登校になった自身の境遇を、彼女は「自分が逃げている」と感じたのかもしれません。それは同時に逃げてしまった自身を責めているわけです
ですが、いじめに遭ったなら「逃げてもよいのでは?」と思うのです。使徒と闘い地球を救えと要求されているのでもなし
学校に適応できないのであれば、逃げてもよいのでしょう。他に替えが効かないエヴァのパイロットではないのですから
自殺するくらいなら、逃げて逃げて逃げまくり、逃げる自分を正当化し、「自分が悪いんじゃない。世の中が悪いのさ」と開き直るくらいでもよいのでは?
人生を真っ直ぐ生きず、斜めに生きるという選択肢もありでしょう
話は逸れてしまうのですが、息子や娘が自殺すれば親は悲しむわけです。有名大学に進学するより、東証一部上場企業に就職するより、ただ生きていてほしかったはずです
話は逸れてしまうのですが、息子や娘が自殺すれば親は悲しむわけです。有名大学に進学するより、東証一部上場企業に就職するより、ただ生きていてほしかったはずです
不登校になったからといって自殺しなければならない道理はありません。高校中退でも運転免許を取得すれば、働き口はいくらでもあり食べていける時代です
旧世代/新世代を切り分けていいのか?
私の論考は、あくまでもゲンドウを中心とする大人たちのサイドから『シン』の決着に疑問を述べたものでしかない。子どもたちの側から見れば――シンジの急激な成長、レイ(仮)の感情の開花、アスカの承認欲求の充足など――、無数の生命の誕生を寿ぎ、農村的自然の豊かさを祝福し、虚構(アニメ)と現実(実写)が一体化したデジタルネイチャーな未来を肯定する物語として読み解けるかもしれない。
滅びていく旧世代の「おじさん」たち、それとは対照的に、手を繋いで未来へと駆けていく新世紀の子ども・若者たち。その残酷なまでの対比が鮮やかに描かれているとも言える。
しかし、こうした旧世代/新世代の切り分けは、何かをスキップしていないか。解放されるには早すぎるのではないか(序盤での重度の鬱状態から立ち直ったあとのシンジは、はっきり言って、『エヴァ』の物語を手っ取り早く完結させるための無敵の狂言回しのようで、成熟や成長のリアリティを感じなかった)
では、あらためて、大人の男たちの責任の形とは何か。もはや悠長に成熟を問うのではなく、社会に対する責任を背負った男性像とは。社会変革的な「男性」になるとは。ゲンドウの存在を中心にみるかぎり、『シン』は出発点ではあっても、すべての終わりではありえない。率直にそう思った。
中高年のサラリーマンが会社の悪口をぶつくさ言いながら、それでも出社して仕事をこなすような斜めに構えた生き方をゲンドウがしているわけではありません。ただ、斜めに構えて生きている大人が少なくない数いるのも事実です
社畜と呼ばれようとも、停年まで会社にしがみついているのはみっともないと言われようとも
ゲンドウは何もしなかったわけでもなく、逃げまくっていたわけでもなく、特務機関ネルフの立ち上げと運営、エヴァンゲリオン零号機や初号機の製造と運用など、困難な業務を中心になって遂行してきたのであり、人類の危機に立ち向かう体制を作った功績は認めるべきでしょう。ただ、彼個人の目的のためであったとしても
杉田評論では旧世代/新世代という色分けをしていますが、新世代もやがては旧世代になるのであり、新世代に期待しすぎるのもどうかと思ってしまいます
14歳の少年に過剰な期待をするのがそもそも間違いだという気がします(シンジやアスカの年齢を考えれば、成熟や成長にリアリティがないのは当然です。そもそも成熟する年齢ではありません)
新世代だからといって輝かしい未来が待っているわけでもなし
旧世代が放置した問題を押し付けられるのは迷惑な限りであり、現時点で解決しない問題が未来では解決できるなどと安易に考えるのは間違いでしょう
「逃げちゃダメだ」と叫ぶシンジには多大な苦難なのしかかるわけですが、あそこで逃げたならまた別な生き方がシンジにはあったはずです
杉田評論そのものとは無関係な話になってしまいましたが、思ったところを書きました
(関連記事)
エヴァンゲリオンは境界例 精神科医斎藤環https://03pqxmmz.seesaa.net/article/202106article_4.html
「エヴァンゲリヲン新劇場版:Q」を振り返る
https://03pqxmmz.seesaa.net/article/202105article_23.html
攻殻機動隊とエヴァ:近未来の「自由」とは
https://03pqxmmz.seesaa.net/article/202105article_16.html
エヴァンゲリオン 少年は神話になったのか?
https://03pqxmmz.seesaa.net/article/202105article_1.html
マスク拒否男 エヴァに乗りそこねたシンジ君
https://03pqxmmz.seesaa.net/article/202104article_33.html
「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」 シンジとゲンドウの和解
「エヴァンゲリオン」 精神分析と思春期理解
「エヴァンゲリオン」を巡る言説 賛否の行方
大塚英志 「エヴァンゲリオン」を語る
エヴァンゲリオン 家族を問う物語
「エヴァンゲリオン」 若者の承認欲求
「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」の爽快感と疎外感
「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」という「終わりの物語」
「エヴァンゲリオン」 14歳の自意識
なぜエヴァンゲリオンは若者の心をとらえるのか?
押井守監督の「エヴァンゲリオン」批判を考える
「アニメはオタクの消費財と化した」と指摘した押井守
「新世紀エヴァンゲリオン」を世界はどう観たのか?
「エヴァンゲリオン」新作公開に思う
「14歳のエヴァは終っていない」 酒鬼薔薇聖斗のエヴァンゲリオン
エヴァンゲリオン 14歳のカルテ
エヴァンゲリオン 14歳のカルテ(2)
セカイ系アニメ 戦闘少女とダメ男
セカイ系アニメ 戦闘少女とダメ男(2)
セカイ系 「天気の子」からサリンジャー
「ノルウェイの森」をセカイ系だと批評する東浩紀
コロナ禍とセカイ系アニメ
「エヴァンゲリオン」に言及した記事は、本文右の「テーマ別記事」で「エヴァンゲリオン」をクリックすると表示されます