「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」という「終わりの物語」
確定申告のための書類もようやく片付いたので、「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」にまつわる批評を幾つか取り上げることにします
この新作劇場版を自分はまだ観ていないのですが、それはそれとして、各論者が劇場版を観て何を論じ、何を受け止め、あるいは受け止め損なったのか考えようと思います
最初は貞包英之立教大学准教授が「現代ビジネス」に書いた批評を取り上げます
劇場版公開前に、「これでエヴァンゲリオンは終わる。完結編だ」というアナウンスが流れました。ファンの間には、「エヴァンゲリオンが終わるわけはない。終わったと言っておいて、またやるのだろう」という楽観論がある一方、「エヴァンゲリオン・ロス」を危ぶむ声もありました
庵野秀明にとっての終わりではあっても、ファンとしては終わりを受け入れたくない(永遠にエヴァンゲリオンの物語が続いていほしいとの願望)があり、本作を最後にエヴァンゲリオンが作られないとなったら「己の中の未完の物語をどうすればよいのか?」と
その辺りも念頭に置きながら、読み進めましょう
結局、『シン・エヴァ劇場版』は何を終わらせられなかったのか
終わらない物語
『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』に望まれていたこと、それは終わらせることだった。25年ものあいだくりかえされ、結果として、その間に震災やコロナ禍などいくつものカタストロフィも通過してきた物語を終わらせること。
しかし結論からいえば、『シン・エヴァンゲリオン劇場版』は、それができているようには思えない。
わかりやすい結論は、たしかにそこにあった。父を倒すこと、父になること、カップルを作り、自給自足ともいえるような共同体に戻ること。就職すること、地元に帰ること。多くの登場人物たちは、ついに居場所をみつけ、そこに落ち着いていった。
それにカタルシスがあったことも否定しない。四半世紀の間、ファンたちの熱い思いを受け止めてきたキャラクターたちが、勝手な思い入れから逃れ、ようやく自分の居場所をみつけたのである。
ただし問題はそうした解決が、安易なものといわざるをえなかったことにある。世の中の規範を受け入れ、家族をつくり、成長すること。多くの作品でくりかえされるそうした物語自体が悪いわけでは、たしかにない。
しかしわざわざ、それを『エヴァンゲリオン』でやる必要があったのか。そうした結末にたどり着くなら、TV版で、または最初の劇場版ですでにできたはずだし、あるいは新シリーズの劇場版もこれほど長引かせなくてもよかったはずである。
そうした陳腐な居場所探しの物語を拒否したからこそ、『エヴァンゲリオン』は、ここまで引き伸ばされてきたように思われるのである。
筆者は「シン・エヴァ劇場版」が物語を正しく終わらせていないと断じています。もちろん、それは筆者が望んだ形での完結ではないという意味です
「シン・エヴァ劇場版」が陳腐な居場所探しの話として完結してしまった⇒これまでの物語はいったい何であったのか、という意見です
「シン・エヴァ劇場版」が陳腐な居場所探しの話として完結してしまった⇒これまでの物語はいったい何であったのか、という意見です
『シン・エヴァ』は期待に応えていない
それはエヴァも同じだった。たしかにそこには、(1)スーパーロボットの枠組みを借りた家族の物語、(2)宇宙戦艦ヤマト的物語を反復する日本を世界の救世主とみなすナショナリスティックな欲望、(3)美少女たちがなぜか自分を愛してくれるという男性中心的な都合の良い性的妄想がふんだんに「サービス」されていた。
しかしそれを、わたし(たち)は愛したのではなかった。それはたんなるギミックにすぎず、むしろそれを超えて、父や母の物語とは別の場所で生きる権利――「父に、ありがとう 母に、さようなら」――や、国家や組織が語る大きな物語に対する不信、そしてひとりで生きる強さや孤独が、そこで擁護されていたのではないか。
『エヴァンゲリオン』は登場人物たちを、なぜ自分が戦わなければならないのかわからないような不条理の極限の状態に追い込みながら、シンジや綾波やアスカにそれぞれの決断を迫っていったのである。
そうすることで、秋葉原も、『エヴァンゲリオン』も、戦後日本のなかに拘束され、息をつまらせられてきたものとは別の社会を生きることを夢みさせてくれたといえる。
あえていえばそれはバブル崩壊のなかで中断された(ようにみえる)「消費社会」というプロジェクトを引き継ぎながら、より自由な生き方を目指す試みとしてあった。
そうして戦後日本を縛ってきた「人間」像のなかでタブー化されていた、より孤独で私的な欲望を、しかし妥協なく生きていく道を選ぶことを人びとに提案していったのである。
日本がどうの、地球がどうの、その危機を誰が救うのかといった大きな物語が背景にあったとしても、1番重要なのは14歳の孤独な少年が「自分はいったい何者であるのか」を問い、答えを探す過程にあるとの考えを筆者はしているのでしょう
その過程を模索し続けたエヴァンゲリオンにしては、「結末が安易すぎる」と納得できないようです
そうして戦後日本を縛ってきた「人間」像のなかでタブー化されていた、より孤独で私的な欲望を、しかし妥協なく生きていく道を選ぶことを人びとに提案していったのである。
25年後の閉塞
しかし『シン・エヴァンゲリオン:||』は、そうして開かれた問いに応えたようにみえない。個人が示した勇気と決断の先には、家族の幻想、カップルの幻想、共同体の幻想しかないとそこでは主張され、そこからはみだす個であることは否定――そうでなければミサトや冬月のように死ぬしかない――されるのである。
そうして出口を探していたら振り出しに戻るというループのなかに、エヴァンゲリオンの物語は閉じこめられてしまったようにみえる。そしてそれは、秋葉原の衰退が昨今、つぶやかれ始めているのと、奇妙にシンクロしている。
端的にはコロナ禍のため、しかしおそらくは高齢化や日本の経済的な地位の低下など社会のより構造的な変化のなかで、秋葉原にかけられていた夢は霧消し、その街は普通の街に戻ろうとしているようにみえるのである。
それを仕方がないとみる人もいるだろう。娯楽作品として、エヴァはたしかにひとつのありうべき結末を与えている。ただしこうした「逃避」によって、『シン・エヴァンゲリオン』が、現代的な面白さ、またそれを前提とした、エンターテーメントとしてもより大きな成功の可能性を失ったのではないかという疑問も残る。
秋葉原が永遠に新しい流行の発信地、オタクの聖地であり続ける必要はないのであり、荒廃し没落し、再開発によって様相を一変させることもありでしょう
また、「エヴァンゲリオン」が永遠に「オタクの夢」であり続ける必要はないと自分は思います
「エヴァンゲリオン」がエンターティメントとして成功を得るには、今後も劇場版が作り続けられる必要があり、それは庵野秀明の考えではないということです。庵野秀明が誰かに続編を作る権利を譲渡すれば、この先も新たな「エヴァンゲリオン」が数年ごとに登場し、劇場を賑わせるのかもしれませんが
現代的な問題を取り入れていたら…
エヴァにより現代的な問題が取り入れられていたらどうなっただろうか。
たとえば、フェミニズムの問題。母として子どもを守るか、男に頭を撫でられる存在となるだけが女性の生き方ではないという問題がもし映画に含まれていれば、アスカや綾波は他者のために曖昧に生きるのではなく、自分たちの運命に抗する戦いを、もう少し切実に戦うことができたはずである。
あるいはセクシュアリティの問題。シンジとカオルの関係は、96年当時、BL的なものを大衆的に認知させるのに大きな役割をはたした。しかしそうした関係は、『シン・エヴァンゲリオン:||』ではなかったことにされる。ホモソーシャルな安定した友愛の関係ではなく、より切実で多形的な関係に目覚めたとしたら、シンジは世界を救うための操り人形的な役割におさまることのない自分の物語を生きられたのではないか。
またはエスニスティの問題。『シン・エヴァンゲリオン:||』では、アスカが背負っていたようなエスニシティのような問題は、より単純な人工生命といった問題に還元され、ほとんど浮上しない。
それにもう少し丹念な目を注ぎ、あるいはさらに、アジアに広がる微妙で微細な問題を新たに取り込むことができていたなら――真希波はそうしたキャラクターになれたのかもしれない――、生き残るのは日本人ばかりという不可解な物語も相対化できたはずである。
終わった物語に「もしも…だったら」と投げかけたところで仕方がないのであり、フェミニズムや同性愛など取り上げたいのならそれは別の物語でやればよいのでは?
「エヴァンゲリオン」でやる必要はないと思います
先に放送されたNHK「プロフェッショナル」の庵野秀明特集で、この完結編のため庵野が何度も脚本を書き直している姿を映していました
「完結させる」との結論があったものの、そこへ至るまでは紆余曲折があり、最後は庵野の出した結論をスタッフが受け入れ、この形になったのでしょう
であれば、これが物語の終わりであり、これ以外の完結はなかったと理解せざるを得ません。それが嫌なら薄い本(同人誌)でも作って、「私のエヴァンゲリオン」をやるしかないでしょう
最終的に碇シンジがコンビニエンスストアの店員になっても、宅配便の運転手になってもよいわけです
筆者自身がいつまでも、「バブル崩壊のあの時代」に執着し、見果てぬ夢を追いかけている風に感じました
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