宮崎駿「紅の豚」 彼はいかにして豚になったか?

宮崎駿作品についてあれこれ述べてきたシリーズの1つとして、今回は「紅の豚」を取り上げます
自分は主人公が豚であることに違和感を覚えることもなく視聴していたわけですが、多くの視聴者は「なぜ主人公が豚なのか?」と感じていたそうです(いまさらなのですが、初めて知りました)
その理由を含めて書いていきましょう
青木研二茨城大学人文学部教授の論文「宮崎駿の『紅の豚』 : 登場人物たちはどのようにつくりあげられたか―(Ⅰ)」を読みつつ、思うところを述べたいと思います

宮崎駿の『紅の豚』 : 登場人物たちはどのようにつくりあげられたか―(Ⅰ)

論文からの引用は赤字で表示しています。注釈を示す数字は割愛してあります

(論文3ページ)
アニメ版では、もうひとつの大きな改変がなされている。それは、重要な登場人物として、フィオのほかにジーナというポルコの幼なじみの女性が出てくることである。このジーナはフィオよりもあとからつくり出された人物であるにもかかわらず、Aパートの絵コンテ(絵コンテはAパートからEパートまである)において、フィオよりも先に登場し、ホテル・アドリアーノの経営者であり、ポルコの幼なじみであるという設定がなされたことで、大きな存在感が与えられている。そして、序盤の二人がホテル内で食事をするシーンで、壁に貼られたポルコが人間だったときの写真が話題となり、ジーナがポルコにかけられた「魔法」についていいおよぶことで、ポルコにおける豚と人間性とのかかわりについての謎が早々と観客に提示される。ポルコは何らかの過去に受けた傷や、葛藤・矛盾をかかえている屈折した人物であることがほのめかされるのである。この段階で、もはや45分程度の「航空活劇漫画映画」として作品をしあげられないことはあきらかであった。
マンガ版からアニメ版にかけて、大幅に諸人物像の改変が行なわれ、より豊かな肉づけがほどこされているのだが、まずもって印象づけられるのは、ジーナという登場人物の存在感であり、彼女との関係性が本作品の主人公であるポルコの人物造型にも複雑・微妙な影響をおよぼすことになる。

ポルコのキャラクターを引き立てている存在としてジーナは欠かせません。フィオも重要な登場人物ではありますが、やはりポルコの過去を知る人物としてその存在感は特別です。原作とも呼べる漫画版にジーナは存在していないのですから、彼女の登場によって物語は奥行きも陰影も増す結果となります。物語作家としての宮崎の手腕が発揮されているわけです
以前、当ブログで紹介した韓国のパクリアニメ「空飛ぶ海賊 マテオ」では主人公のキャラに奥行きも陰影もなく、薄っぺらな人物像しか見えてこないのであり、この辺りに物語作家としての技量の差が顕著に現れています

(論文4ページ)
マンガ版におけるポルコの人物像に戻ることにしよう。
ポルコは、「イタリア海軍退役パイロット マルコ・パゴット中尉」であり、「貧乏なバルカンの諸国と契約した空賊狩りの賞金稼ぎ」である。飛行艇の修復完成後に、フィオが整備をするために自分も飛行艇に同乗するといい出したとき、「冗談じゃねえ 賞金稼ぎなんざカタギの娘がやることじゃねえぜ」と応答したことからもわかるように、ポルコは、自分がカタギの世界とはかけ離れたヤクザな人間であることを意識している。それから、フィオを乗せて飛んでいる間に、「ファシストが政権をとった事も ニューヨークの株の暴落も 今はどうでもよいことだ」というポルコのモノローグが入る。ポルコは、国家や権力機構に対してかかわりをもつことを避ける姿勢を見せてはいるものの、あからさまな嫌悪感・拒否感を示してはいない。

(論文4ページ)
絵コンテ作業を開始したのち、宮崎は鈴木プロデュサーを初めとするスタッフから、ポルコはなぜ豚なのかという問いを投げかけられることになったわけだが、これは宮崎からすれば、制作にとりかかる以前には思いもよらなかった問いかけであると考えられる。軍人たちというものは、上下の階級の差別なくありとあらゆる兵士が<豚>のようなイメージをもつことは、宮崎にとってごくあたりまえの想定と見なされていたからである。豚を登場人物とするアイディアは、劇場用アニメ『どうぶつ宝島』(1971)や、テレビアニメ『名探偵ホームズ』(1982)などですでに使われている。しかし私としては、ここでとくに、宮崎の軍事兵器趣味が全面的に展開されている短編マンガ集『宮崎駿の雑想ノート』 1984年から1992年までに執筆したマンガが収録されている をとりあげておきたい。このマンガ集では、軍用機、軍艦、航空母艦、潜水艦、戦車などが、宮崎独特のタッチで精密に描きこまれているが、軍人たちは、高官から一兵卒にいたるまで、ほとんどすべて豚の顔になっている。

これが司馬遼太郎なら、個々の軍人(秋山好古や秋山真之、児玉源太郎といった人物)に関心を示すところです。しかし、宮崎は軍人に興味がないのであり、むしろ戦闘機や飛行艇とその開発者が一番なのでしょう

(論文7ページ)
そして前述のように、マンガ版では当然の前提であった、軍人・兵士に豚のイメージを重ねあわせるという発想が、周囲のスタッフからの「なぜ豚なのか」という問いを前にして揺さぶりをかけられ、マンガ版には出てこなかった<人間であったころのポルコ>という側面がとりあげられることになったのであった。別ないい方をすれば、マンガ版で現在時的な行動をする者として描かれているポルコに、過去の様々なエピソードがつけ加えられて、ポルコの人間像に時間的な奥行きが与えられることになったのである。こうした豚のポルコと人間のときのポルコの関係は、本作品において、観客の興味を引っぱって行く重要なミステリーを形づくっている。

以前にも折に触れて書いたところですが、中国や韓国がアニメーション制作に力を入れ始めた2000年代に、「すぐに日本に追いつき、追い越すだろう」と報じたジャーナリスト、評論家がいました。そうはならない理由は既に書いた通りです
中国や韓国のアニメーションは人物の造形が弱く、薄っぺらな人物像しか描けません。それがスーパーヒーローである主人公の場合も、あるいはその敵役となる悪者でも。日本のアニメーションの場合、複雑な人物像をストーリーと絡めて巧みに表現します。さらに敵役の描写でも手を抜かず、場合によっては主人公よりも丁寧に描きます。そこで物語の幅が広がり、コントラストも豊かな作品が生まれるのです
2021年の現時点においても、物語作りの巧みさで中国や韓国は追いつけないのは言うまでもありません
さて、話を戻しましょう
論文は、「なぜマルコは豚にならなければなかったのか?」を探求していきます
筆者なりに到達した結論は16ページ目に記述されています

(論文16ページ)
ピッコロ社のおやじは、工場での昼食のシーンで、一同を前にして、「女の手を借りて戦闘艇を作る罪深き私どもをお許し下さい。」という祈りの文句を唱える。「女の手」を借りることと「罪深い」の間には、因果関係があるようには見えない。殺戮の道具にほかならない戦闘艇をつくっているから罪深いのであり、むしろここでは、ポルコないし作者の宮崎が口にしそうなせりふが、ピッコロ社のおやじの口を借りて語られているのである。
飛ぶことへの執着は、ポルコの心理に罪悪感の入り混じった矛盾・分裂をひき起こさずにはすまなかった。そして彼は、そうした自己矛盾に対する自己制裁的な対処・決着をつけざるをえなかったのではないだろうか。それがとりもなおさず<豚>になることなのである。だから、<豚>になることはあくまでもポルコ個人にかかわる問題であり、<豚>であることをやめるためには、<飛行艇乗り>という生き方 好きだから好きな を放棄することが、まずもって前提条件として必要になる。<飛ぶこと>をやめないかぎり、<豚>が人間に戻ることはありえないであろう。

論文の結論をどう解釈するか、人それぞれです
自分には「飛ぶことへの罪悪感」というのはピンときませんし、「自己矛盾に対する自己制裁」というのも理解できません
単純にマルコは人間であることから、人間であることに伴うしがらみから豚になることで逃げたのではないのか、と自分は思います。そして逃げるという選択肢は間違いではないとも思います
アニメーション制作の過程で宮崎駿なりに自問自答し、たどり着いた答えというものがあるのかもしれません。インタビューの中で問いに答え、「マルコが豚である理由」を説明しているのかもしれません
ただし、いつも書いているように作者が自作について語っていたとしても、それが真実であるとは限らないのであり、鵜呑みにするのは危険であり、読み誤りの原因にもなります
村上春樹は「作家は嘘をつく商売」だと語っており、嘘を重ねてきたと自虐しています
インタビューで宮崎駿がどう説明しようと、それが真相でありすべてであるとは決めつけるのは早計であり、よくよく検討しなければなりません。真相は「作者自身がそうと気がつかないところにある」可能性を捨てきれないのですから

「紅の豚」予告


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