村上春樹「踊る小人」と魔術的リアリズム
村上春樹作品を取り上げるシリーズです。どうしても長編小説が注目され評価されるのですが、短編にも味わい作品があります。深い今回は「蛍・納屋を焼く・その他の短編」に収められている「踊る小人」を取り上げます
雑誌「新潮」に「踊る小人」が掲載されたのが1984年ですから、初期の作品です
前述の短編集では「ノルウェイの森」の先駆けとなった「蛍」や「納屋を焼く」が注目され、評価も高いのではないかと思うのですが、この「踊る小人」を重要な作品と評価する向きもあります
その理由も含め、考えてみましょう。なお、小説の粗筋紹介は省略します
叩き台として、ダルミ・カタリン女史の論文を引用します
論文の筆者ダルミ・カタリン女史はハンガリー出身の日本文学・中国文学研究者で、論文執筆時は広島大学の大学院に所属していたようです
村上春樹と魔術的リアリズム : 「踊る小人」に見る一九八〇年代
https://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/files/public/3/39140/20160304094234599769/kbs_52_67.pdf
論文は冒頭、「踊る小人」がファンタジー要素を備えながらも、極めて現実的な問題を取り扱った作品であると指摘します
(論文1ページ)
早川香世が述べているように「ファンタジーとは、一般的に、科学主義、合理主義など近代の思想を基盤とする〈現実性〉から逸脱する〈超自然現象〉を扱った作品群」であり、その意味で「ファンタジーとリアリズムはいわば表裏一体であり、両者は補完関係」にあるとされる。また、ロー・ファンタジーの場合においては舞台は現実であり、そこに超自然現象が侵入するのだが、ハイ・ファンタジーの物語では舞台は超自然現象が起こり得る現実と違う異世界である、すなわち、「踊る小人」の「物語全体が架空世界に置かれたハイ・ファンタジー」といった読み方は、現実性を物語の中に見出しておらず、作品の持つ現実に関する問題意識を話題としない。しかし、村上自身は「この物語はファンタジーのかたちをとっているが、意図的にファンタジーとして書かれたものではない。僕としてはむしろ普通の現実的な物語を書くような気持ちでこの話を書いた」と述べており、「ファンタジーのかたち」をとった物語の背景にある現実性の存在を強調している。したがって、村上の自解をふまえるなら、本作品は超自然現象が起こっている世界を描いていてもハイ・ファンタジーではないと見なせ、物語の現実性を視野に入れることが必要となる。村上春樹の「意図的にファンタジーとして書かれたものではない」との発言をどう受け止めるか、難しいところです。取材に応じ、作者自身が作品について語る機会があったとしても額面通りに受け止めるか、あるいは隠された意図や、はたまた作者自身気がついていない無意識のメッセージが込められているケースもあり、作者の発言を絶対視するのは読み誤りの原因になりかねません
なので作者の発言は括弧に入れて保留、としておくのがお勧めです
(論文3ページ)
つまり、パーツから像を作る作業や「彼女の腐敗」などのシーンに注目するならば、物語はフェアリーテイルやファンタジーにしか見えないかもしれないが、現実的な世界に突然侵入してくる超自然現象に応じる「僕」やその周囲の反応に焦点を当てると、作品はファンタジーより魔術的リアリズムの表現技法に近いと考えられる。例えば工場での不条理な仕事を当たり前の行為として語っている「僕」の態度は、魔術的リアリズムのナレーション方法と一致すると言えよう。これが魔術的リアリズムと同様に現実的な世界を舞台としたロー・ファンタジーとの最も明確な相違点である。
この論文では「踊る小人」をハイ・ファンタジーでもなく、ロー・ファンタジーでもなく、村上の魔術的リアリズムによる作品と指摘しているのですが、自分にはその魔術的リアリズムなるものがどうにも理解できません
異常な日常をあたかも当然のことと受け止める主人公の態度が、主人公のみならず登場人物全体に行き渡って所与のものとして定着している作品世界、を魔術的リアリズムによって描かれたものと解釈すればよいのでしょうか?
(論文7ページ)
言い換えれば、「僕」は小人の登場をきっかけに操作されている集団的記憶の断片を集め始め、自分の損壊されたアイデンティティを再構築し始める。そのプロセスを「踊る小人」は描いていると言える。
マシュー・C・ストレチャーはジャック・ラカンの論考をふまえ、アンデンティティ形成に必要となるもう一つの不可欠な要素として他者による自己認知の行為を挙げ、他者との触れ合いの重要性を強調している。大半の村上作品の主人公と同様に猫と一緒に暮らしている独身の「僕」だが、小人が二回目の夢の中に登場した後、工場の新人である美しい女性を手に入れることに必死になり、小人と危険な契約まで結んでしまう。彼女をなんとしても手に入れることに決めた「僕」は舞踏会で踊っている彼女の姿を眺めながら「もし僕がひとつの夢のために別の夢を利用しているのだとしたら、本当の僕はいったいどこにいるのだう」と言い、初めて自分の存在について考えるようになる、つまり、他者である彼女を意識することによって、自分の本当の存在=アイデンティティにも気づくようになる構図がこの箇所から窺える。
ラカンといえば「鏡像段階」の学説が有名です。ここでは簡単な説明にとどめます
赤ん坊は鏡に映った己の鏡像を目にすることで、己の全体像を把握し受け入れる、とラカンは考えます。この場合の鏡を他者の視線と置き換えてみましょう。つまり周囲の人(他者)が認識する人物像が提示され、それを己が受け止め解釈することで自分自身という存在=アイデンティティが確立される、との考え方です
「踊る小人」において、「僕」は踊っている彼女→他者の存在を意識することで、自分の存在を考えるようになるとの構図が示されます
その時点まで「僕」は、村上作品にしばしば登場する孤独な独身男性との設定であり、他者との交流は極めて希薄な存在として描かれています
(論文9ページ)
「踊る小人」の「架空世界」から透視される「リアリズム」いわゆる「現実」がバブル化し始めた一九八〇年代の日本社会だとすれば、本作品で取り扱われているアイデンティティの問題が当時の事情を反映していることが窺える。ストレチャーは村上文学における一つの中心的なテーマとしてアイデンティティ問題を挙げるのだが、それは村上自身のみではなく、村上の世代が共有している問題として把握すべきだと論じる。戦争の苦しさを経験したことがない村上(の世代)にとっては、戦争の悲劇を体験した親の世代とは異なり、裕福であること、つまり消費社会が提供しているモノの消費だけが人生の目的ではなくなった結果、自分のアイデンティティ形成の基盤となり得る対象を当時の高度資本主義社会の中に見出すことが出来なくなった。このように自分のアイデンティティ、あるいは村上の言葉を使うなら「コミットメント」の対象を定めるのが難しくなってきた状況では当然の如く、解決策として新しい思想や運動が次々と生み出されるわけである。
うーん、どうなのでしょう。アイデンティティと問う文学作品は村上春樹だけでなく、村上世代だけでなく、およそ青春期から中年期を取り上げた文学作品には頻繁に見い出せるのであり、それを村上作品の特徴であるかのように指摘するのはどうか、と思ってしまいます
例えば下村湖人の「次郎物語」のように、自己探求の物語は古くから存在します(昭和11年から書き始められ、戦後まで書き継がれた)。あるいは明治時代の文学作品のように、文明開化による社会の変化の中で近代的自我の確立を目指す小説も、アイデンティティを探求したものと考えられます
ですから、村上春樹の言うところの「コミットメント」が特に目新しいとは自分には思えないわけです
学生運動以降、無気力でしらけた若者が登場し、世の中を斜めに見たり、高度成長経済に組み込まれないのを良しとする若者もいました。フォークギターを片手に自由であることを主張し、独立系のレコード会社を設立したシンガーソングライターとか
それも一つの「コミットメント」(多分に表層的な)ではなかったか、という気がします
論文では学生運動とその崩壊がアイデンティティの形成の妨げになったとか、何にコミットメントするべきか見失う要因になったとの指摘もあるのですが、学生運動後の世代である自分には理解できない話です
ただし、そうした時代背景の「お噺」が理解できないからといって、「踊る小人」を理解できないということにはならないのであり、これも作者の自作評などと同じく括弧に入れておけばよいと思います
ちなみに「ベトナム戦争の時代」や「学生運動の時代」を訳あり気に話すような人物を、自分は信用しません
長くなりましたので、ここで区切りとします
ダルミ論文の中で取り上げられている山根由美恵の「村上春樹『踊る小人』論ーボルヘスの影」や、中山幸枝の「村上春樹『踊る小人』論ー近年の作品につながる社会的モチーフ・暴力・自己の問題」などの論文を順番に取り上げていこうと思います
追記:この記事を書いた時点で「南米文学における魔術的リアリズム」についてまったく知らず、無理解のままでした。その後、あれこれサイトを検索して「南米文学における魔術的リアリズム」を聞きかじりしたところです。南米文学作品は未読ですが、およそブルガーコフの「巨匠とマルガリータ」のような複雑怪奇な世界の上に物語が成り立つ文学、なのだろうと受け止めました
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