「セーラームーン」から考える少女と通過儀礼

「セーラームーン」に関する論文、ブログ等を読み漁っていて、面白いものを発見しましたので取り上げます
神戸女学院大学主催の女性学インスティチュートの論文コンクール(1999年度)で最優秀賞を得たもの、と紹介されています。筆者古田明子氏は内田樹教授のゼミに所属していたのだとか
学生の研究意欲を刺激しようとの企画なのでしょう。それはそれで結構だとしても、2020年度は応募論文が1つだけ、という状況です。「女性学」を看板に掲げるのであれば、教授陣も学生を指導し、啓発し、活性化させる必要があるのでは?

Mother/Girl-母なる少女 : 『美少女戦士セーラームーン』にみる通過儀礼

この論文は「女の子」が「少女」となり、「少女」から「女」へと移り変わるところにある通過儀礼を取り上げたものです
一般的には少年・少女がある種の儀式や体験を経て大人への階段を登るプロセスを通過儀礼と呼びます
現代の少女たちが直面する通過儀礼とは何か、テレビシリーズのアニメ「セーラームーン」を題材に考える内容になっています。「第27話:亜美ちゃんの恋?:未来予知の少年」というように、アニメのシーンを切り取って、少女の通過儀礼がどのようなものであるか解き明かしていますので、これはこれで面白く読めます
さて、順序が逆になってしまうのですが、論文の末尾、結論部分に相当する「終章」から少しばかり引用し、古田氏の言わんとしているところを見ておこうと思います(学術書、あるいは論文を読む際には、結論部分を先に目を通すのが自分のやり方です。そうやって自分の求める情報なりに触れている可能性があれば最初に戻って読み進めますし、結論部分を読んで「違うな」と感じたらそこで諦め、別のものに手を出します)
結論として古田氏は以下のように述べます

終章
たかがアニメ、されどアニメ。物語というものは多様なレベルの語り口を持つ。それ故、多様な読み方が可能だ。『セーラームーン』は、一つには勧善懲悪の心地よい物語であり、また、一つには世界の平和と愛をテーマにした[教育的]な物語でもある。あるいは、マニアたちの喜ぶセクシャルな物語と見ることもできる。そして、何よりその中には、フォークロアと極めて類似した構造を持つ通過儀礼の物語があり、同時に母性の物語をも内包している。今回、この多様な側面を持つ一つのアニメから抽出された現代の「少女」の有り様を見てきた。消費社会をさまよう。少女は通過儀礼を執拗に繰り返すことでそれ自身を回避する。儀礼は繰り返されることで無化されていく。いわば、儀礼のための儀礼。その果たされない儀礼の繰り返しは時に滑稽で、時に痛々しい。それでも少女は無数のまやかしの儀礼の中で、大人への道を探している。それは、少女という異物的存在が自らの生きる場所を探し求めている旅だと言える。
(中略)
多くの大人たちが少女論を題材にそれぞれの思惑で少女を語ってきたが、そこに共通して見られるのは、現実の少女の存在の困難さであり、その困難な存在がそこを脱して成長していくときの更なる困惑である。『セーラームーン』が物語である以上、私が語ったものはその物語の一側面に過ぎない。だが、少なくとも、少女たち、あるいはこれから少女という不可解な領域に踏み込もうとする子供たちが、このような物語を好んで消費したのは事実である。では、私が彼女たちにそのような困惑を取り去るひとつの言説を提示できたかというと、そうは思わない。儀礼というものはそのような言葉で語り得ないところに本質がある。そして儀礼なき時代に生まれや少女たちが歩む術は、結局のところ、彼女たち自身に委ねるしかないのかもしれない。

意味のつかみにくいところもありますが、消費行動という偽りの通過儀礼を反復することで、母性をいう仮面をかぶることで、少女は大人の女(少女の擬態)へと変貌を遂げる、と解釈できます。別の例えをすれば、ジャニーズ・タレントの追っかけをしている少女がやがて母親になるものの、今度は自分の娘を連れて追っかけをしている図、を想像してください

(論文19ページ)
しかし歳代の問題は、美少女と美女にはセーラー服が似合ってしまうということだ。少なくともアニメの中では彼女たちは永遠に少女でいられるのだ。しかも、「女装」することによってそれはより保証されたものとなる。『スケバン刑事』はおもちゃを武器に戦っていたが、『セーラームーン』は女を武器に戦う。それは変身姿の色気であり、戦闘中の涙であり、最終話の裸体が示す母性である。少女たちは子供を装うことによってではなく、女を装着することで少女にとどまろうとする。大人になることを回避し続ける最も懸命な術は大人のふりをすることではなかろうか。
(中略)
永遠の少女でいるために「女」の仮面を付け、「母性」をちらつかせ、消費社会をしたたかに生きていく。それが、これからの「少女」なのだ。

長文の論文なので他の部分に言及できませんが、一読の価値はあります。興味のある方は上記のアドレスからPDFファイルをダウンロードして読んでいただけたら、と思います

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