「風の谷のナウシカ」 アニメーションを読む方法

当ブログでは宮崎駿作品をしばしば取り上げて語っています。その中でも特に自分が惹かれているのは劇場版アニメーションではない方の「風の谷のナウシカ」です
劇場版「ナウシカ」を批判する気はないものの、称賛する気にもなれません。ただ、公開当時の興行結果はいまいちだったものの、作品としてのクオリティは高く、アニメーション作家としての宮崎駿の地位と評価を固める役割を果たしたのは間違いないでしょう
さて、今回は日本文学研究者がアニメーション作品を批評する際の方法論、を取り上げた論文に着目します
東洋大学の水谷真紀講師の論文から引用させてもらいます

「風の谷のナウシカ」の〈宛て先〉--宮崎駿を「読む」ための試論

従来の日本文学研究の方法、テクスト分析がアニメーションや漫画の批評に応用できるのか、を至極まじめに論じています

(論文4ページ)
しかしアニメーションという表現形態は、制作の技術や方法、映像、音楽、声優、公開前のメディア戦略等々、分析の視点が多く存在し、先に触れた『ブルータス』の特集のように多くの人々がそれぞれの拠る立場から語ることを可能としている。本稿で注目する「風の谷のナウシカ」に関しても、先行研究を調べていくと一つの研究分野には留まらない。物語内容や物語の構造を分析する考察の他に、アニメーション制作に携わる者による解説や発現、音楽との関連性、声優の意義、マンガ版との差異、ポップカルチャーにおける位置づけを試みる考察など多数あり、いわゆる文学・文化研究の視野だけでは収まりきらない拡がりがある。そしてこれらの言説を見ていくと、たとえ物語分析を目的とする考察であっても、文学・文化研究における「読む」方法を何らかの検証なしにアニメーションへ応用することは、果たして可能だろうかという疑問も生じてくるのだ。また、同時に、様々な立場から発言する言説の中には、文学研究の擁護を用いれば「作家論」的な解釈に容易に落ち着いてしまう論述も見受けられる。

以下、論文中では文学作品を批評する際に用いられるロラン・バルトのテクスト分析の方法について説明しているのですが、そこら既知の話なので割愛します
アニメーションを読み解く先行研究として、漫画版「ナウシカ」と劇場版「ナウシカ」を比較・検討した中村三春の研究や、ナウシカの「飛翔」に着目した村瀬学の研究を引き合いに出し、論じてもいますので関心のある方は論文本文を一読願います

(論文5ページ)
たしかにアニメーションにしろマンガにしろ、「物語」としてテクストを捉え直せば言語テクストの分析と同じように「読む」ことが可能だ。しかし留意すべき点として、両者は画像の連続によって構成されていることが挙げられる。特にアニメーションは「絵を動かす」表現形態であり、技術や道具の革新によって表現できる物事が大きく変化していくことを考慮すれば、制作当時の技術が可能とした、あるいは不可能であった表象とはどんなものなのか、確認しておく必要はないだろうか。もちろん、制作当時の技術上の限界や作り手の工夫がどのようなものであったにせよ、現在私達の手元に届けられている作品が切り拓いた文化的な領野に対する評価は公正になされるだろう。

構造主義と括られる思想も中身は細かくいくつもの枝葉に分かれます。ロラン・バルトのテクスト分析はその中でも太い枝の1つです
そこでは書かれたもの=テクストを読み解き、物語世界に分け入りその作品に描かれた向こう側へ到達する行為を目指すわけですが、アニメーションのような映像作品であっても同じであるというのが筆者の結論です
ただし、アニメーションは多くの人の手によって成る作品ですから、作者宮崎駿の意図がどこまで表現されているかは慎重に検討する必要があると指摘します。これは宮崎駿が1人でコツコツ描きあげた漫画版「ナウシカ」との違いを意識した上での注意点です
さて、上記の論文では雑誌「ブルータス」の「ジブリ特集」に触れ、アニメーターから現代思想や建築の研究者らによるエッセイの存在を挙げてこれらを文化現象として扱っています。テクスト分析の方法論からすれば、これらのエッセイや論考もジブリのアニメーションというテクストを読み解くための素材であり、研究対象に含まれます
ただ、そこで宮崎駿や高畑勲が語る内容をどこまで重視するか、は論議のあるところでしょう
宮崎駿はさまざまなメディアの取材を受け、自作について語りまくっています。営業・宣伝のためでもあり、彼がサービス精神旺盛なためでもあります
自分が専門とする(などと言うのは大変恐縮なのですが)ラカン派の精神分析も、広い意味で構造主義とされる思想に含まれます。ラカンは非分析者の語りにだけ注目するのではなく、語らなかったこと、語ろうとしなかったことこそが重要であると説きます
つまり、宮崎駿が取材に応じて語る内容がすべてではなく、そこで語らなかったこと、語ろうとしなかった重要な何かがある、と想定します
「ナウシカ」の劇場版は漫画版がまだ完結していない状態で制作されたものであり、劇場版の尺に収めるためストーリーの改変が必要でした。結果として、宮崎駿自身、劇場版には多くに不満があっただろうと推測されます。が、宮崎はそれを口には出しません。劇場版制作には多くの人が関わっていたのですから、劇場版への不満を迂闊に口外すべきでないとの思いがあるのでしょう。不満を口にすれば、関わった人たちへの批判にも発展しかねません
ジブリの鈴木敏夫は漫画版「ナウシカ」を元にした完全劇場版「ナウシカ」を作りたいのですが、宮崎は承諾しないままです。劇場版「ナウシカ」には不満はあれど、あれはあれで1つの完成した作品だと宮崎駿は考えているのかもしれません
関係者が直接口に出さないため、こうした憶測を重ねることになるのですが、これも作品を読む行為の延長であり、可能性を考える行為です
作品の中に描かれたこと、作者が語ったことだけが「読み」の対象ではなく、作品の中に描かれなかったこと、描けなかったことをも含めた考察を試み、物語世界の向こう側へ至るべく足掻いてこそ批評であると考えます

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