「GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊」をアメリカはどう観たのか

日本のアニメーション作品である「GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊」や「AKIRA」がアメリカのアニメーションファンに多くな衝撃を与えた、という話は誰もが知るところです
しかし、実際にどのような評価を受け、いかなる影響を与えたのか、と問われると自分は説明できません
せいぜい、ビルボードのセルビデオ・ランキングで1位を獲得した(それだけ売れた)との情報くらいしか知らないのです
なので、今回はきっちりとその辺りを勉強しようと思い、取り上げることにしました
「千葉大学比較文化研究」に掲載された芳賀理彦准教授の論文を引用します。いつものように論文からの引用は赤字で、自分のコメントは黒字で表示します

アメリカにおける押井守『GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊』の受容-文化交流・インターフェイス・翻訳の場としてのアニメーション-

『攻殻機動隊』がアメリカのみならず世界中で多くの人々を惹きつけた理由の一つは、欧米の多くの SF 小説や SF 映画に登場するサイバースペースやサイボーグなどいくつかのモチーフの融合の仕方や、日本的宗教観を背景としたサイバースペースの概念の解釈や映像化の方法が独特であったからだと考えられる。サイバースペースという概念はこれまで小説や映画、ゲームなど様々な芸術形式に取り入れられており、『攻殻機動隊』においても非常に効果的に導入されている。Allucquère Roseanne Stone の定義によるとサイバースペースとは、「脳に直接リンクすることによって入り込める、電気的に生成され、物理的に居住可能なもう一つの現実のことである。すなわち、『通常』空間に存在する物理的な身体からは切り離された再編成された『人格』が居住する場である」(609、筆者訳)。『攻殻機動隊』におけるサイバースペースの概念はまさにこの通りであり、作品世界内では人間の身体の一部あるいは全部が人工的なものと交換可能で脳はサイバーネットワークに直結されている。身体だけでなく記憶でさえも交換可能な環境で、人々は自分のアイデンティティーに関して不安を抱えながら生きている。この作品は、サイバースペースやサイボーグ技術が高度に発達した社会で、「アイデンティティー」や「個性」、あるいは「人間」という概念がどのように変化していくのかという問いを我々に投げかけているのである。

サイバースペースで繰り広げられる活劇、陰謀劇という新規なエンターティメントがアメリカでウケたと考えられます
ただ、それがどこまで広く、深く浸透したのかが問題だと自分は思います
芳賀論文ではいわゆるアカデミズムの反応が中心です。なので、なビデオソフトを購入したアメリカの一般的視聴者(攻殻機動隊を見ようと思い立った時点で一般人とは言えないのかもしれませんが)がどのような反応を示したのか、どこに魅力を感じたのか、詳細はわかりません。当時の作品レビューなど確認する必要があります
サイバースペースで繰り広げられる活劇、電脳戦、陰謀といったエンターティメントの要素がクールに感じられ、ウケたと推測しますが

また別のシーンで草薙は、自分は「電脳と義体で構成された模擬人格」であってそもそも初めから「私」は存在しないのではないかという感覚に取りつかれていることを告白する。「所詮は周囲の状況で私らしきものがあると判断しているだけ」だと彼女が吐露する時、「周囲の状況」が意味するものは自分自身の記憶も含め自分や他人に関するあらゆる情報のことである。しかしながら、記憶すら交換可能であるような高度に技術が進化した社会ではアイデンティティーや主体の存在に確信を持つことが出来なくなってしまう。作品内で草薙は自分の意識をネットに直接繋げて離れた場所からでも他人の義体や電脳をいつでもハックでき思い通りに動かせる。そういった意味で彼女にはもはや生きるために肉体は必要ではなくネットの中にその主体が拡散していると言うことが出来るのである。

作品は草薙素子の抱える不安の吐露、心のゆらぎの描写に時間を割いており、それが人形遣い事件の伏線だと後で気付かされます
人形遣いの宿ったサイボーグの登場から物語は加速します。そこにある何か(おそらくゴースト)に草薙素子は惹かれるわけですが、ここは物語に引き込まれる観客と、共感できない観客に分かれるところでしょう
アカデミズムの関係者は別にして、観客のほとんどは「自分が自分である」ことを当然と受け止めており、「自分が自分でなくなる」不安とは無縁なのですから
クライマックスと呼ぶべき多脚戦車との格闘戦で草薙素子の体が破壊されてしまう描写で、肉体の破壊という気色悪さグロテスクさを感じて嫌悪する観客がいても不思議ではありません。あえてそれを観せることで、草薙素子が自身の機械の体に頓着せず、壊れても構わないとの自覚の上で無茶な戦闘に臨んでいると示唆しています。さらに、自身のボディを損壊してまでも人形遣いとの接触(電脳へ潜り、人形遣いのゴーストとコンタクトすること)を急ぐ、草薙素子の強い衝動をアピールし、それが彼女の本当の狙いであると観客は知るわけです

実際彼女が無意識に望んでいるのは自分がネットの中に拡散してしまうことである。草薙は自分のアイデンティティーについて不安を覚えながらも旧来のアイデンティティーの概念に縛られていることに不満も抱いている。アイデンティティーを構築する身体的及び精神的要素が不確かになって来ているとはいえ、未だそれらに自分が縛られていることは彼女にとってストレスでもある。アイデンティティーの消滅を危惧しながら実は通常空間における個人としての活動の限界から解き離れたいと願っているのである。そしてサイバースペースのネットワークに存在するだけでなく、それ自体になりたいとも望んでいる。それが意味することは、ネットワークの一部になってしまうことによって通常の空間に存在する脳も含めた物理的な身体から完全に自由になることである。

芳賀論文の中には、ミシェル・フーコーやジャック・ラカン、フェリックス・ガタリとジル・ドゥルーズの思想と兼ね合わせて、サイバースペース社会のあり方や自己のあり方を考えたアメリカでの研究が紹介されていますが、その中身については立ち入りません
関心のある方は芳賀論文を読み込んでください(自分個人としては興味深い報告なので、咀嚼することができたなら、いずれ取り上げるつもりです)
近未来の社会がどう変化するのか、そこで人はどう生きるのか、何が問題として起こり得るのかを研究するアメリカの学徒にとって、「GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊」はまたとない研究対象となったのでしょう
さて、論文からの引用としては前後してしまうのですが、ダナ・ハダウェイの「サイボーグ宣言」(1985年)について読むと、彼女の思想の先進性に驚くとともに、それを1995年に劇場版アニメーションで表現してしまった「GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊」にもあらためて驚くわけです
と、同時に1995年以降、日本のアニメーションはいったい何を表現してきたのか、とも思ってしまいます。1995年公開の作品がいまだ時代の最先端というのはどうにも居心地の悪い気分です
長くなってしまいましたので、最後に論文の中からハダウェイの「サイボーグ宣言」の部分を引用して区切りとします

1985年に発表されたHaraway の論文「サイボーグ宣言:二十世紀後半の科学とテクノロジー、そして社会主義フェミニズム」は、未だに精神と身体、動物と機械、唯心論と唯物論の二項対立に縛られている旧来のフェミニズムにサイボーグの比喩を用いることによって挑戦し、今日のジェンダー論の発展に大きな貢献を果たした。その論文において Haraway は、様々な種類の機械や道具の力を借りて生活しているという意味で我々人類は既にサイボーグ文化の中で生きているのだと述べる。例えば義肢、時計、眼鏡、靴などを身に付け、楽器を演奏し、その音楽を聞き、コンピューターを使い画面上の文字を読む、そういった行為は全てサイボーグ文化なのであり、そこでは「精神と身体、動物と人間、有機物と無機物、公と私、自然と文化、男性と女性、原始と文明といったあらゆる二項対立は思想的に疑問視されるのである」

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