「涼宮ハルヒ」 キョンという立ち位置
ライトノベル「涼宮ハルヒ」シリーズについて繰り返し言及しています。当然ながら、主人公である涼宮ハルヒ中心に語っているのですが、もう一人重要な存在であるのは語り手も兼ねるキョンという男子高校生です
今回はキョンの存在について考えます。前フリとしてリアルサウンドに掲載された、新刊への期待を綴った文を引用します
「涼宮ハルヒ」シリーズ、なぜ大ブームになった? 優れたストーリーとキャラの魅力を再考
(前略)
平凡な男の子と、エキセントリックな女子の、ボーイ・ミーツ・ガール物語として始まったストーリーは、途中からSFへと変容。さらに、ハルヒの秘密が明らかになるとセカイ系になる。セカイ系の定義は難しいのだが、ここでは個人の事情が世界の危機と直結している物語だと思っていただきたい。おお、ここまで話を広げるのかとビックリしていたら、最終的にボーイ・ミーツ・ガール物語へと回帰して落着する。子供の頃に、フィクションの世界の住人になりたいと思ったことのある人なら、誰でも好きにならずにいられない、きわめて優れたストーリーなのだ。
一方、キャラクターに注目すると、こちらも素晴らしい。涼宮ハルヒ、長門有希、朝比奈みくる。3人とも独自の設定を持った美少女で、それぞれの魅力を発揮しているのだ。男性陣も、美形の古泉一樹と平凡なキョンを、そつなく並べている。男性女性、どちらの読者にも受けるキャラクターが揃えられているのだ。さらに、いとうのいぢのイラストが、キャラクターの人気に拍車をかけた。また、京都アニメーションが製作したテレビアニメによって、一大ブームが巻き起こることになる。
ところで私がシリーズで一番感心したのは、キョンの描き方である。SOS団唯一の一般人。しかし、濃すぎるメンバーに囲まれても、印象が薄くなることはない。なぜなら彼は、ハルヒがこの世界にとって最重要人物だと知っても、きちんと彼女と向き合うからだ。
たとえばシリーズ第2弾『涼宮ハルヒの溜息』で、みくるをぞんざいに扱うハルヒに対して、怒りを露わにする。たとえハルヒがどんな存在であっても、クラスメイトであり、SOS団の仲間だと思っているからだ。この時点で他の3人は、ハルヒの行動に対処しているだけである。どんなに親しく見えても、対等の関係になることはない。ハルヒの隣に立っているのはキョンだけだ。だからこそハルヒは、キョンのいうことには、たまに従う。平凡な少年を平凡なまま、物語の中に屹立させる、作者の手腕が鮮やかだ。
などとシリーズの面白さを語っていたら、『涼宮ハルヒの直観』への期待が、どんどん高まってきた。久しぶりにSOS団と再会できる日が、今から楽しみである。
キョンの存在について、「平凡な少年を平凡なまま、物語の中に屹立させる」と称賛しています
さて、「涼宮ハルヒの直観」の出来栄えが期待通りであるかどうかはともかくとして、今回は小説中のキョンの立ち位置について考えます
佛教大学の研究紀要に収録された新井陽介氏の論文から一部、引用させていただきます
キョンを形作るものー「涼宮ハルヒの憂鬱を中心に」ー
論文の前段部分ではキョンによる語り、という「涼宮ハルヒ」シリーズの形式について村上春樹からの影響を検討しています。が、そこは今回の自分の取り上げたい内容ではありませんので割愛します
大雑把に言うと、村上春樹以降の小説は全部、村上春樹の影響が見て取れるという解釈に陥る可能性があり、これでは議論にならないからです
村上春樹も谷川流も近い地域の出身ですから、谷川流が村上春樹の作品を読んでいたと推測するのは当然ですが、どこまで影響を受けたのかは神のみぞ知るところでしょう
さて、上記のリアルサウンドの記事では、キョンを平凡な少年と表現されています
作品の中ではキョンを普通の男子生徒、と表現されており、他のキャラクター(謎の転校生にして超能力者、無口な少女にしてヒューマノイドインターフェイス)ほど、際立った特徴を備えていません
ただし、どこまでが普通の男子生徒であるかはよくよく吟味する必要があります
(論文9ページ)
キョンは「普通」という言葉(日常、いつものといった意味も含む)を多用している節が見られる。普通ではないものを求める涼宮ハルヒとは対照的に、「普通」といった面が強調されている。しかし、周囲からの評価は「変」といった評価がなされている。
国木田(キョンの友人)は「どちらかと言うとキョンも変な人間にカテゴライズされるんじゃないかな」と言っているし、谷口(キョンの友人)も「お前が普通の男子生徒ってんなら、俺なんかミジンコ並みに普通だぜ」と言っている。
だが、「普通」というものの基準が一体どこにあるのか、という点を明らかにしなければキョンが「普通」かそうではないかということは本文からは分からない。しかし、次の一点だけは、「普通」であることが強調されている。古泉が「あなたは特別何の力もない普通の人間です」と言っている部分がある。
「普通」というのは作者谷川流が読者により印象付けるため繰り返し用いている表現なのでしょう。ライトノベルの主人公にありがちな、どこにでもいる「普通の少年」というキャラクター設定を踏襲することで、ハルヒたちの異能者ぶりが余計に際立つように、と
むしろ、キョンが何も特殊な能力を持たないメンバーであるがゆえ、読者はキョンに感情移入できると考えられます
例えばキョンがハルヒや長門有希を上回る異能者で、長門の技(技能)をまことしやかに解説する役割をしていたら、読者はキョンの存在が鼻につきしらけてしまったのではないでしょうか?
異能者ではない平凡な少年であるからこそ、長門有希の技能に驚いたり感心できたりするわけで
キョンが読者と同じ目線で物語を眺め、語れる位置にいるから、読者はついてこれるのだと考えます
さて、新井論文は東浩紀による「涼宮ハルヒ」の構造の指摘に移ります
(論文9ページ)
これらの文章は、一般に人間描写として想像されるものとは大きく異なっている、というのも、そこではそもそも、描写対象の人間がまず存在し、それを作家が描写し、読者がそれを読むという一般的な(のちに「自然主義的な」と呼ぶことになる)描写の順序が機能していないからである。(略)
それらの文章は、登場したばかりのキャラクターが今後どのような活動を行い、どのような性格を示すことになるのか、作家が読者の想像力を先読みし、しかも、その先読みのあいだに一種の共犯関係を作り出すために配置されている。つまり、谷川はここで、直接に登場人物を描写するだけでなく、描写とキャラクターのデータベースのあいだで仮想的な対話を行い、その結果そのものが文章のなかに組み入れて描写を完結させているのである。(略)
言うまでもなく、そのような仮想的な対話は、作者と読者がキャラクターのデータベースを共有し、かつ読者によってその存在が意識されていなければ、まったく機能しない。
データベースという表現に自分は違和感を覚えるのですが、どうでしょうか?
「涼宮ハルヒ」シリーズが文庫本で次々と刊行されるタイミングで、インターネット上のWikipediaなど、まとめサイトが補完されていったのは事実でしょうが、東の言いたいのは必ずしも実在するデータベースを指すのではなく、読者の脳内に形成されつつある情報の集合体であるのかもしれません
キョンは単なる登場人物、一人のキャラクターという存在ではなく、キョンは物語の語り手であると同時に参加者であり、場合によっては物語の外から全体を見守る役(作者の代理)であり、ハルヒに気をもむ保護者の役割まで引き受けている苦労人という側面まで付与されています
見方によれば、「涼宮ハルヒ」シリーズはキョンの物語であり、ハルヒは君臨すれども統治しないシンボルのような存在といえるのかもしれません
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