村上春樹「一九七三年のピンボール」研究Ⅱ
村上春樹の初期作品の1つにして、芥川賞候補作にも挙げられた「一九七三年のピンボール」を取り上げる第2弾です
京都大学小島基洋准教授(論文執筆次は札幌大学講師)の論文「村上春樹『1973年のピンボール』論ーフリッパー、配電盤、ゲーム・ティルト、リプレイあるいは、双子の女の子、直子、くしゃみ、『純粋理性批判』の無効性ー」から引用します
この小説が村上春樹の作品群の中でも人気がなく、取り上げた評論や論文の類も他の小説に比べて少ないのは、筆者が指摘するようにピンボールそのものをプレイしたことのない人が大多数を占めるからなのでしょう
小説がたびたび登場するピンボールについての薀蓄を読まされるのは、ピンボールを知らない読者にとっては苦痛であり、苦役であるのかもしれません。逆にピンボール好きな自分にとっては、実に楽しいわけですが
(前略)
やあ、と僕は行った。・・・・・いや、言わなかったのかもしれない。とにかく僕は彼女のフィールドのガラス板に手を載せた。ガラスは氷のように冷ややかであり、僕の手の温もりは白くくもった十本の指のあとをそこに残した。彼女はやっと目覚めたように僕に微笑む。
ずいぶん長く会わなかったような気がするわ、と彼女が言う。僕は考えるふりをして指を折ってみる。三年ってとこだな。あっという間だよ。
このピンボール台が〈僕〉の死んだ恋人、直子であることは多くの議論の前提として共有されてきた。〈僕〉が再会したスペースシップは単なるピンボール台ではなく、「人間ピンボール台」ー直子の精神を宿したピンボール台ーなのである。
しかし、本作の企みはそのレベルに留まってはいない。村上は「人間ピンボール台」のほかに、「ピンボール台人間」ーピンボール台として存在する人間ーを登場させているのだ。このことを最初に指摘したのが斎藤美奈子である。
ふた子の女の子が二枚のフリッパー。「僕」がボール。そのように見立てて物語を台に見なすと、ボールがガチャンガチャンとぶつかりながら得点が加算されていくあのゲームに、この小説の構造はよく似ている。
この指摘には自分はおどろいたとともに、がっかりしました
これまでピンボール台を直子であるとは思わずに読んでいましたし、双子の女の子をフリッパーであると認識したことがなかったからです
率直に言って、ピンボール台を直子と解釈するのは気持ちが悪いのであり、それが文学研究者の間で共通認識になっているという指摘にもがっかりです。どうしてそんな、つまらない読み方をするのだろう、と
ピンボール台を直子に見立て、「人間ピンボール台」などと表現する本論文にも違和感ありありです
また、双子の女の子を「ピンボール台人間」と表現するのは気色悪いだけです
そんな気色の悪い解釈をしたなら、せっかくの小説の風味がスプラッター小説並みになり、とても味わえたものではないと
確かに双子の女の子は現実離れした存在であり、過分にギミック感溢れる存在です。が、村上春樹の小説には毎度のように奇妙な女の子が登場しますので、いちいちその出自を問う必要を感じない、というのが正直なところです
そして、スペースシップと「僕」との対話からイメージさせられるのは直子ではなく、直子ならざる直子です(本作に直子として登場する人物と、スペースシップの対話から導かれる女性のイメージが微妙に合致しない、というのが自分の感触です。ゆえにピンボール台=直子という見方に違和感があります)
敢えていうなら、冷凍倉庫で出会うのは若くして死んだ直子ではなく、もっと大人になった(あるいは「僕」と同じように中年にさしかかった)直子の投影です
これまでにも取り上げた各種論文が示すように、「風の歌を聴け」から本作、「ノルウェイの森」に登場する直子は同一人物ではなく、複数の人物のイメージが投影されたものであり、性格も言葉遣いも、考え方もまちまちであるわけですが、そこは置いておきましょう
自分の読みを書いておきます。作品中に登場する「鼠」については今回、割愛します
「僕」は直子の死について何もできなかった。死の予兆にあるいは気がついていたのかもしれないが、彼女の死を止められなかった。自責の念なのか、後悔なのか、あるいは直子への未練なのか、直子の死が「僕」に重くのしかかっている
自分が直子の死について何もできなかったことを忘れるため、ピンボールに熱中する。ビンボール台に向かってボールを弾いている間だけは、直子の死について自分を責めるのを止められるから(しかし、ゲームセンターのピンボール台スペースシップでゲームを繰り返すうち、直子ならざる直子と対話をするようになる)
ただ、そこのあるのはリプレイ、リプレイの連続であるように、何も進展のない対話であり、結局はどこへもたどり着けない。これは一種の喪の作業です。そしてゲームセンターは唐突に閉鎖され、スペースシップは姿を消す。あたかも、直子が突然命を絶ったように
つまり、「僕」は直子の死をまだ受け止めきれず、喪に服したまま中断を余儀なくされてしまう
表面上は直子のことを思い出さないようにし、淡々と翻訳事務所で働くようになった「僕」の前に双子が現れる
双子の登場によって「僕」の日常に変化が生じ、ゲームの感触が甦り、「僕」はスペースシップを探し回る。それは直子にかかわる記憶を甦らせ、追い求めるのと同じことである
スペースシップを見つけた「僕」は、直子ならざる存在(「僕と同じだけ年齢を重ねた直子のイメージを投影した誰か)と対話をする…
そこで喪の作業は一段落し、直子の死を受け入れることができたのかどうか?
作品にははっきりと書かれていません。おそらくは何らかの心境の変化があったものと推測されます。そして双子は「僕」の元から去り、日常に戻って行くところで物語は終わります
俗に幽霊は年を取らないと言われますが、どうなのでしょうか?
冷凍倉庫での対話のシーンを読んでいると、直子ならざる直子は「僕」よりも年上ではないか、とさえ感じられます。その諦観したような口振りのせいなのか
幽霊であれ、夢であれ、通常なら若い日のままのイメージで登場しそうな気もします。もちろん、それは想起する側の、若い日への執着があるゆえです。青春時代の回顧(恋愛であれ、何であれ)は青春時代の中でこそ決着させなければならないのですから
長くなりましたので、ここで区切りとします
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