「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」論

押井守監督による「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」が公開されたのは1984年です
なので、日本のアニメーション作品としては古典の部類に含まれるのかもしれません。若い世代では、「知らない」、「観たことない」と答える人がほとんどでしょう
ここ最近、宮崎駿作品について言及してきたのですが、趣を変えて今回は押井守監督作品を取り上げます
宮崎監督の場合、「ルパン三世 カリオストロの城」が1つのターニングポイントとされるように、押井監督にとってはこの「ビューティフル・ドリーマー」が世に知られるきっかけになった作品です
前作である劇場版アニメ「うる星やつら オンリー・ユー」でも監督を務めていますが、いわゆる押井守らしさは控え目です。こちらの「オンリー・ユー」では、いくつものアニメーション作品の脚本を担当している今春智子(能楽、金春流宗家の出身)が脚本を担当し、原作者の高橋留美子もその出来栄えに大満足したとの話です
対して、「ビューティフル・ドリーマー」は押井監督が脚本も担当し、押井ワールド全開の展開でしたが、興行結果は前作に負けています。さらに、試写を観た高橋留美子が激怒した、というエピソードもあります
では、原作者を激怒させた「ビューティフル・ドリーマー」とはどのような作品なのか?
ネタバレを回避する気はありませんが、物語のあらすじに字数を費やすのは無駄なので作品の概要は省略させてもらいます
今日は「このページを読む者に永遠の呪いあれ」さんのブログから、「『ビューティフル・ドリーマー』に見るモラトリウムの終焉」と題された記事を引用させてもらいます


『ビューティフル・ドリーマー』に見るモラトリウムの終焉
(前略)
主要な男女キャラが「相手を好きだ」と認識し、それが発展した時にすべてが終わる。その時がくるまでの狂騒的なお祭り騒ぎ。
『涼宮ハルヒ』シリーズを筆頭に、現在蔓延しているラノベや、それに付随する一連の作品は、こうした『うる星やつら』の構造を雛形とし、30年近く経った今も同じことを繰り返しつづけている。
『うる星やつら』の模倣者たちは、『ビューティフル・ドリーマー』がそうした作品のアンチテーゼであることに自覚的なのか無自覚なのかわからないが、『涼宮ハルヒ』シリーズに関して言えば、『ビューティフル・ドリーマー』のスピリットを理解せぬまま、ギミックやトリックだけを借用し、焼き直しをしているようにしか見えない。
そして『ビューティフル・ドリーマー』とは、『うる星やつら』の持つ幻想を解体し、本質をあぶりだす作品に他ならなかった。
当時の高橋留美子が『ビューティフル・ドリーマー』を試写で見た直後、怒ったのも無理はない。
だが、そうした思惑にも関わらず『ビューティフル・ドリーマー』がわれわれを魅了してやまないのは、メインヒロインのラムちゃんの望んだ「みんなといつまでも仲良く、楽しく過ごしたい」という願いが、あまりにも美しく悲しすぎたからだ。
誰もが若い頃、一度は抱いたであろう「仲のよい友達といつまでも一緒に楽しく過ごせたらいいのに」という願いは、現実では決して叶うことのない夢なのだから。


「いつまでも気心の知れた仲間と楽しく」といった絆も、仲間内にいくつかのカップルが誕生すればあっさりと崩壊してしまいます。あるいは互いの恋人を奪い合う、どうしようもない修羅場を迎えるか
そうなる前の、ひとときのお祭り騒ぎを描いた作品という解釈に異論はありません。祭りの後の虚しさには敢えて触れず、夢は夢のままに、との描き方をしているのですから、これで高橋留美子が激怒した、というのはちょっと不可解な気もします
むしろ、「うる星やつら」のキャラと設定を借りて、まったく別の物語にされてしまったのが不快だったのではないか、と自分は思うのです。原作者として絶対に譲れないものがあり、そこに押井守がズカズカと踏み込んだがゆえの怒り、だと
一度試写を観ただけで、上記のブログで展開されている主張(幻想の解体)のような深読みが高橋留美子にできたのかどうか疑問です
さて、上記の記事で前段部分は省略したのですが、他者の存在を認識することこそ、恋愛であるとの主張が盛り込まれています(記述があまり明確ではないので読み取り辛い感がして残念です)
となれば、次々と美少女を追いかけ回す諸星あたるは、他者の存在をどう認識しているのか、が気になります。そもそも諸星あたるは他者を認識できているのか、あるいはラムとその他の少女たちをどう認識しているのか、そこに差異はあるのか、という問いが立てられます
これに関して、ブログ記事へ寄せられたコメントが欄外に記載されており、「涼宮ハルヒ」擁護派の人が異論を唱えているのが面白く感じられます
いわく、「諸星あたるに他者認識はできず、キョン(「涼宮ハルヒ」シリーズの登場人物)のように人の面倒を率先してみられる人物にならないと他者認識などできないと言うべき」だと
ここは考えどころです。恋愛の場合、相手を実物以上に理想化し、過大に評価してしまう危険が伴うのであり、それは他者を認識していると言い難く、他者なるものを誤解する行為です。いわば、他人に自身の期待を重ねて幻視しているわけです
幻視した部分をも含めて、他者として認識していると強弁する手もありますが、それは認識論から逸脱し、価値観の問題、嗜好の問題になってしまうのでは?
抽象化された話ではわかりにくいでしょうから、「うる星やつら」に戻りましょう
諸星あたるは「ラムがいつでも自分を受け入れてくれる相手」であると信じて疑わないゆえ、他の女の子にちょっかいを出し、ラムを嫉妬させて喜んでいるのでしょう
ラムは諸星あたるが「決して自分を裏切らない男性」だと信じて疑わないゆえ、他の女の子に手を出すあたるに怒りの電撃を炸裂させているのであり、互いの役割を理解した上での夫婦漫才を延々と繰り返しているのです
そうと分かっているから、押井守は漫画「うる星やつら」を好きではない、と発言したのでしょう
「涼宮ハルヒ」シリーズでも類似した構図であり、こちらは互いの立場や役割をそうと理解しないまま、夫婦漫才を延々と繰り返している物語だといえます

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