「海辺のカフカ」 自己愛の行方

甲南大学紀要143巻(2006年)に掲載された田中雅史教授の論文「内部と外部を重ねる選択 : 村上春樹『海辺のカフカ』に見られる自己愛的イメージと退行的倫理」を叩き台にして、「海辺のカフカ」の主人公である少年の自己愛について考えます
単に自己愛と書くと、漠然とした概念であり、あれもこれも自己愛、となりかねません
例えば昨日取り上げた、妻の連れ子の小学生を殺した長島悠介被告も自己愛が傷ついた人間であり、それゆえ小学生のこどもを絞殺する暴挙に走ったと表現することもできます。自分の妻に向かって、息子とオレとどっちが大事なのか、と問い糾すような人物をイメージしてください。ただし、こうした表現がまかり通るなら多くの殺人犯が「自己愛の傷ついた人間」になってしまいます
もちろん、ここで紹介する論文はそんな表面的な自己愛を論じているわけではなく、ハインツ・コフートの自己心理学(フロイトの精神分析から派生した学派)をかなり厳格に用いて論じようとしています

内部と外部を重ねる選択 : 村上春樹『海辺のカフカ』に見られる自己愛的イメージと退行的倫理

論文は注も含めると50ページもあり、PDFファイルで読むのはいろいろと難しいのでプリンターで印刷し、付箋をベタベタ貼り付けながら読みました
感想としてはボタンをかけちがえたシャツを着た感覚、というところでしょうか
自分はラカンの精神分析学を中心に学んでいるので、どうしても無意識の働きに関心が向いてしまいます。対してこの論文はコフートの自己心理学による読みなので、カフカ少年の抑圧と理想化転移、あるいはその挫折が中心に語られます
顕著な例を挙げると、カフカ少年と甲村記念図書館の佐伯さん(仮想としてカフカ少年の母親)の関係を巡る読みにそれが現れます
引用部分のページ数については紀要のページ数表記を用いています

(36ページから37ページ)
さて、本論では心理的な歪みに注目して論じていくのだが、はじめに述べたように母親からの分離という前エディプス段階の問題として、この物語を考えていこうと思っている。精神分析的な観点から村上春樹を論じたものとして、フロイト、ユング、ラカンなどを参照している小林正明氏の「塔と海の彼方にー村上春樹論ー」が木股氏の『集成』に収録されているが、私は村上春樹作品にはエディプス的な葛藤も含まれるが、より本質的なのは前エディプス段階、あるいは発達段階に固定する必要はないかもしれないが、とにかく母親からの分離の過程で生じた問題に起因するとされている自己愛の生涯という問題だと考えている。それで、フロイトではなく、ウィニコットやコフートを参照した。(中略)
コフートも母親的な支持を与えてくれる対象と自己との関係を主に論じており、説明の仕方も彼のいう「経験に近い」ものである。経験的に理解しやすい説明は、小説で起こった出来事などと直接比較できるので、貴重である。

(47ページ)
カフカ少年は見知らぬ土地での不安を和らげる、自己対象として機能するものを手に入れたわけである。続いてカフカ少年は佐伯さんを、「この人が僕の母親だといいのにな」と思う。ここまでは「現実でがあるけれども心理的な色づけをされた対象」をめぐる話と言っていい。
ところが、カフカ少年は「彼女が僕の母親であってはならないという理由はないのだ」と言い始め、その仮定ははじめはほとんど可能性はないはずだったが、結局この佐伯さんが彼の本当に母親らしいという展開になる。
(以下、佐伯さんとの関係が小説の中でどう展開するかの説明)


カフカ少年の無意識というのは小説の中で文章化されない部分であり、文章化されないので当然ながら読みの対象とはなりません。しかし、だからこそそれを読む訓練が必要になるわけです(特に、ラカン派の精神分析では)
文章化はされていなくてもカフカ少年の行動や発言の合間に、彼の無意識は反映されているものと仮定して、読み進めるわけです
さて、カフカ少年が家出をして四国へ向かったのは、四国=死国というベタな解釈もあります。つまり死者に出会うための四国行き、という設定だったのかもしれません
そして佐伯という母親の名字ですが、四国の瀬戸内沿岸は平城京、平安京の時代に佐伯氏の治めていた土地であり、彼女が四国出身であるのは自然の成り行きとも思われます
もちろん、カフカ少年の四国行きは母親に再会するためであり、母親に愛されず捨てられた自分、という傷ついた自己愛を修復するために必要だったのでしょう(なので、佐伯さんとの出会いは必然といえます)
ちなみにカフカ少年の父親は、「母と交わり父を殺し、姉とも交わる」と予言めい呪詛を繰り返しカフカ少年に発したと小説には書かれていますが、父親が意図して口にした言葉なので特段重要視する必要はありません。父親が無意識のうちに発したものであれば重要ですが
むしろ、父親の意図せぬ意図として、カフカ少年に暗に「母親に会いに行け」とのメッセージだったと読むべきかもしれません
村上春樹の小説の常として、カフカ少年が母親(と目される佐伯さん)を再会してからといって、ハッピーエンドを迎えたりはしないのであり、すんなりとカフカ少年の傷ついた自己愛が修復されたりもしない展開になっています
噛み合っていそうで噛み合わない会話、言葉が上滑りして真意がなかなか掴めない会話といった表現に村上春樹のドラマ作りの上手さを感じるのですが、皆さんはどうでしょうか?
カフカ少年には母親に語ろうとする何か、が決定的に欠けているようにも感じます。図書館で多くの本を読み、筋トレをしてタフな15歳にはなっても、母親に語るべきも一番大切な話が思い浮かばない現実。ラカンなら、大事な話は沈黙の中にある、と指摘するのかもしれません
ただ、それでもカフカ少年は成長し、東京に戻る決意をします
彼の自己愛が十分に修復されたのか、バラバラだったものが統合されたのか、について村上春樹は明文化していません。そこは読者が判断するところでしょう

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