村上春樹「一九七三年のピンボール」研究

村上春樹の小説を続けて取り上げています
「一九七三年のピンボール」は初期の村上作品の中でも、自分が最も好きな小説です。その理由については以前、当ブログで書きましたので繰り返しません
いつもなら誰かの論文を引き合いにして語るところですが、いくつか検討したものの使うのに適切なものがなかったので断念します
この小説は昭和55年上期の芥川賞候補に挙げられたものの、受賞は逃しています(最終的にこの期は該当作なし、になっています)
そこで当時の選評を引用します
選考委員のうち、言及している方とその内容は以下の通りです


「よいと思つた」「古風な誠実主義をからかひながら自分の青春の実感である喪失感や虚無感を示さうとしたものでせう。ずいぶん上手になつたと感心しましたが、大事な仕掛けであるピンボールがどうもうまくきいてゐない。」(丸谷才一)
「三篇(引用者注:「闇のヘルペス」「一九七三年のピンボール」「羽ばたき」)のいずれが入賞しても不満でないと考えていたが、またそれらいずれにも積極的に賞へと推すことにはなにか不充分な思いが残るのでもあった。」「前作につなげて、カート・ヴォネガットの直接の、またスコット・フィッツジェラルドの間接の、影響・模倣が見られる。しかし他から受けたものをこれだけ自分の道具として使いこなせるということは、それはもう明らかな才能というほかにないであろう。」(大江健三郎)
「おもしろかった。」「この時代に生きる二十四歳の青年の感性と知性がよく描かれていた。」「(引用者注:同棲している)双子の存在感をわざと稀薄にして描いているところなど、長い枚数を退屈せずに読んだ。」(吉行淳之介)
「筋のない小説で、夢のようなものだ。主人公は英語とフランス語の飜訳事務所を開いているとあるが、生活は何も書いてない。」(瀧井孝作)
「ひとりでハイカラぶつてふざけてゐる青年を、彼と同じやうに、いい気で安易な筆づかひで描いても、彼の内面の挙止は一向に伝達されません。現代のアメリカ化した風俗(引用者中略)を風俗しか見えぬ浅薄な眼で捕へてゐては、文学は生れ得ない、才能はある人らしいが惜しいことだと思ひます。」(中村光夫)
「予想通り(引用者中略)最後まで残った。」(遠藤周作)
「新しい文学の分野を拓こうという意図の見える唯一の作品で、部分的にはうまいところもあれば、新鮮なものも感じさせられるが、しかし、総体的に見て、感性がから廻りしているところが多く、書けているとは言えない。」(井上靖)


吉行淳之介は村上春樹が前作「風の歌を聴け」で群像新人賞を受賞した際の選考委員でもありましたので、村上に注目していたのでしょう
前回の芥川賞選考時、辛辣な評をしていた大江健三郎は宗旨変えをしたかのように高く評価をしており、興味深く感じられます。それでもまあ、大江特有の皮肉と受け取らなくもないのですが
中村光夫は全否定、という感じでよほど感性が合わなかったのでしょう
井上靖にすれば、彼の作風と真逆とさえ感じる村上春樹(饒舌にして軽薄とさえ感じられる文体)ですから、芥川賞に値するとの評価にはならないと想像します
「一九七三年のピンボール」はおそらく選考に関わる作家にしても、読んだことのないタイプの小説でしょう
しかも、途中に差し込まれたピンボールに関する蘊蓄に興味も関心も抱けないとなれば、読んでいて苦痛でしかないのかもしれません
(ピンボール愛好者の自分にとってはそこが面白く、興味深かったのですが)
ですから、この作品を評価しろと提示された作家や評論家が戸惑い、あるいは嫌悪感を示すのも無理からぬところがあったと思われます
さて、小説の作風自体、前作の「風の歌を聴け」と微妙に変化していますが、内容としては前作と本作で1つという格好です
ただし、村上作品人気投票では「風の歌を聴け」が「ノルウェイの森」に続いて2位に位置するものの、「一九七三年のピンボール」は11位となっており、意外なほど人気がありません
村上春樹の人気書籍ランキング!みんながおすすめする作品は?
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頭の固いベテラン作家にはウケが悪くても、当時の若い世代にはすんなり受け入れらたのではないかと思ってのですが
まあ、上記のランキングは必ずしも作品発表当時の反応を示すものではないので、そこは保留しておきましょう
言えるのは、今回「一九七三年のピンボール」についての批評、論文をGoogleやBingといった検索エンジンを使って調べたものの、件数が非常に少ないという事実です
なので、研究対象から漏れている、あるいは研究対象から外している実態が伺えます。評論家、研究者の側からすると扱いにくい作品なのかもしれません
もう少し調べてみて、何か面白い評論でも見つかれば再度、取り上げたいと思います

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