赤坂憲男「ナウシカ考」を読む その2

赤坂憲雄による「ナウシカ考ー風の谷の黙示録」(岩波書店刊)について、2度目の言及になります
前回はAmazonのレビューをとっかかりに書きました。今回は赤坂憲雄と作家川上弘美の対談記事を取り上げようと思います
他人の書いたもの、語ったものばかりを引用し、ああでもない、こうでもないと書き加えるのはちょっと気がとがめる部分もあるのですが、今回は著者である赤坂憲雄が自著について語っている内容ですから、その辺りは気にしないでおきましょう
さて、引用する対談記事の前置き部分に、「漫画版の『ナウシカ』も、全7巻で累計約1600万部を記録」と書かれていました。他人事ながら嬉しくなってしまいます。これだけ多く出版されたのですから、公共図書館や学校図書館にも並んでおり、おそらく2000万人近い人が漫画版「ナウシカ」を読んだものと推測します。以上、報告したくてこの対談(赤坂憲雄と川上弘美)を取り上げたわけです
劇場版「ナウシカ」の影に隠れ、知る人ぞ知る名作と漫画版「ナウシカ」を形容してきましたが、誤りかもしれません


今読むべき名作 漫画版『風の谷のナウシカ』を赤坂憲雄、川上弘美が考察する
(前略)
愚かな人たちが作った自然も、あがめられるか
赤坂 川上さんの作品世界にもつながっていくと思うのですが、(『ナウシカ』には)キツネリスやトリウマが出てきますよね。ある箇所で、「千年昔の世界には馬という動物がいて、哺乳類だったらしい」という記述が出てきます。つまり、ナウシカ世界の動物は、かつての生態系の分類で、哺乳類と呼ばれていた動物ではないのです。
生命を操る技によって、変えられているということが明らかになりますが、なぜ異種交配の生き物しかいないのでしょうね。実は人間の体も操作されて変えられているという事実も、やがて明らかになります。生態系は、腐海だけでなく、人間も動物も植物も、すべてが変えられている。
野生と文化、自然と人間という、我々の世界ではかろうじてある境界そのものが、壊れてしまった世界を宮崎さんが描いているということに、途中まで気付かなかったんです。それが大きな問いかけになると思ったのは、森の人について考えていたときですね。彼らは腐海と共存し、それを聖なる世界だとあがめている。けれど、その世界を作り出したのは千年前の「火の七日間」という戦争を引き起こした愚かな人類ですよね。それでも、腐海を聖なる森としてあがめることができるのか。彼らはすごく困るわけです。
『ナウシカ』が提示するのは、「すべてが変えられている」ところからしか、出発できないということ。手付かずの自然をめでるのは楽なんです。でも、愚かな人たちが作った自然であってもそれをめでて、聖なるものとあがめることができるのか、という深い問いが突きつけられていると感じました。


対談の中で赤坂憲男は、「映画が公開された当時は特に、ナウシカは環境破壊で追い詰められていく世界を、自己犠牲によって救済する、エコロジーの戦士として扱われていたと思いますね。宮崎さんは、それにいら立っていたと、勝手に想像しています」と述べています
「エコロジーの戦士」云々についてはこれまでにも触れたので、繰り返しは避けます
ナウシカの物語は徹底した環境破壊の後の話であり、生態系そのものがそっくり作り変えられてしまった状況で進められます。なので、ナウシカを引き合いに出し、自然保護の重要性を語りたがる人がいるのは趣味の悪い冗談みたいなものです
赤坂は繰り返し、ナウシカ=「エコロジーの戦士」という既成概念批判をしていますので、よほど腹が立っているのでしょう
劇場版「ナウシカ」ではさらりと流されている「火の七日間」戦争ですが、漫画版は物語の原点として扱われ(言及される機会こそ少ないものの)、すべてはそこから始まったと考えられます。もちろん、「人間も動物も植物も、すべてが変えられる計画も
赤坂の読み(ナウシカ考)は、「火の七日間」で破壊された世界を丹念に読み解いていきます


この物語では一つの声だけを聞くべきではない
赤坂 それで、漫画版『ナウシカ』を読むときには、一つの声だけを聞くべきではないと思うようになりました。ナウシカの声が物語の中心にありますが、それがそのまま宮崎さんの声や考えではない。ナウシカの声ですら、ほかの声によって常に相対化されている。
川上 ナウシカが絶対的な正義だと思われがちですが、そうではないんですよね。私自身には、ケチャという少女の声がとてもよく響いてきました。多様な声が重層的に出てくるところが、ものすごく面白かった。
赤坂 終章では、ミハイル・バフチンの『ドストエフスキーの詩学』(筑摩書房)に触れましたが、そこでのドストエフスキーを宮崎駿に置き換えても成り立つと思うところがたくさんあると感じています。この多声的である、ポリフォニックであるということは、漫画という表現にとっては、未来に託されるべき可能性でしょうね。
漫画版では、黙示録的な善悪の戦いが決着したわけではありませんね。とりあえず、旧人類のプログラミングした未来へのシナリオを破壊しましたが、それをはたして全否定できるのかナウシカの選択は、正しいのか。漫画版は我々に、改めて問いの立て直しを求めています。それをさらに考えていきたいと思います。


ミハイル・バフチンの「ドストエフスキーの詩学」は随分前に読んで、内容もすっかり忘れていました。あらためてバフチンの主張するポリフォニーについて要約すると、「自立しており融合していない複数の声や意識、すなわち十全な価値をもった声たちの真のポリフォニーは、実際、ドストエフスキーの長篇小説の基本的特識と なっている。作品のなかでくりひろげられているのは、ただひとつの作者の意識に照らされたただひとつの客体的世界における複数の運命や生ではない。そうで はなく、ここでは、自分たちの世界をもった複数の対等な意識こそが、みずからの非融合状態を保ちながら組み合わさって、ある出来事という統一体をなしているのである。実際、ドストエフスキーの主人公たちは、ほかならぬ芸術家の創作構想のなかで、作者の言葉の客体であるだけでなく、直接に意味をおびた自分自身の言葉の主体にもなっているのである」という考えです(ミハイル・バフチン「ドストエフスキーの創作の問題」から引用)
つまり、ナウシカの発言だけを追いかけるのではなく、シュワの墓所の主やヴ王、クシャナ、皇弟などなど、さまざまな登場人物たちの声が多層的に物語を構成していると受け止め、解釈する必要がある、という考えに赤坂憲男は立っているのでしょう
自分はどうしてもナウシカに感情移入してしまい、彼女発言や考えを重視してしまいがちですから、この指摘は「目からウロコ」です
さて、最後に「ナウシカ考」とは無関係な愚痴を書いておきます
アメリカで劇場公開された「風の谷のナウシカ」は、「風の戦士たち」とタイトルが変更されています。向こうの映画関係者にすれば、「ナウシカ?」という反応で、「そんなタイトルじゃ売れないよ。日本人はまったくセンスがないね」と決めつけ、タイトルを変更したのでしょう。もちろん戦いが物語の中心にある作品ではないわけですが
昨今の漫画やアニメの中にはバトル中心のものが少なくないものの、そこで繰り返される自問自答「なぜ、戦わなければならないのか」、「なぜ強くなければならないのか」との問いに対する答えが、「大切なものを守るために自分は強くならなければならない」とか「愛する者を守るために戦う」など陳腐なものがあります。中には敵に家族を殺されたから、その復讐のためという、味も素っ気もない理由だったり
漫画やアニメにおける戦闘シーンの描写こそめざましく向上してはいますが、骨格となる物語が貧弱すぎて情けなるほどです
敢えて言うなら、富野由悠季の「ガンダム」でさえ、とても薄っぺらい物語であり、その後量産された「ガンダム物」は薄っぺらい物語をさらに水で薄めた粗悪品という印象しかありません(ガンダムファンは激怒すると思います)
宮崎駿がこの漫画を描くにあたって深く考え、迷い、ためらい、悩んで辿り着いた地点から、さらにその先を目指そうという作品が少ないというのは悲しい現実です
もちろん、漫画は思想書である必要はなく、小難しい理屈を述べる必要はないわけです。しかし、物語をとことん掘り下げ、突き詰め、地平の彼方まで覗こうという野心があってもよいのでは?
予定調和的なハッピーエンドが読者を満足させる側面はありますが、そこを裏切って突き抜けるような作品に触れるのも醍醐味でしょう

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