「風の谷のナウシカ」 その世界観を問う
前回と同じ批評から引用し、ナウシカの世界観を考えます
この場合、世界観とはナウシカの辿り着いた「思想」と言い換えてもよいのでしょう。ただし、「思想」と呼べるほど洗練されたものではありませんし、論理立った思考に基づくものでもありません。ゆえに筆者は世界観との呼称で表現しているものと解釈します
同時にその世界観は宮崎駿がナウシカの物語との苦闘の末に辿り着いたものです
以下、批評にもあるように、ナウシカは論理的飛躍とでも称すべきなのか、唐突に自身の世界観を主張し、シュワの墓所の主を振り切ってしまいます。そこは結末へ向けて物語が加速している流れの中で、ほとんどの読者は違和感を感じるまでもなく読み進めてしまうのでしょう
前回申し上げたように、物語を読みすすめる中でナウシカに感情移入してしまった読者は、「ナウシカがそう考えるのなら、それでよい」と躊躇なく受け入れてしまうのです
しかし、批評では敢えてそこに食いつき、ナウシカの世界観を問題視し異議を唱えます
『漫画版 風の谷のナウシカ』によせ
(前略)
おそらく「人間にとって絶対正しい思想」はない。永久に変わらなくてすむ思想もない。断言していいと思う。いちいち言うまでもないだろうが、墓所の主が全知全能でないように、ナウシカもまた全知全能ではない。王蟲が協力しようが、地球生命体の全意識統合体である腐海の生態系の、全知能、全知識、全能力を傾けてナウシカに協力したところで、やはり全知全能ではありえない。最後にナウシカは「この星にまかせよう」などともいうが、地球だって全知全能であるわけもない。しょせん、自然も地球も人間も物体である、本質的な違いはない。すべてが八百万の神なら、裏返せば一人も神などおるまい。それが多神教の悲惨な結末である。
すべての知的存在は、究極において完全に知的ではいられないのは悲しいことであろう。限定的な情報をもとに暫定的な認識に達して、とりあえず行動するために、細かいところに目をつぶって(罪の許しをこいながら)不器用にうろうろやるだけの話だ。どっちもどっちである。
だからナウシカがどんな体験をして、どんな確信を持とうとも。どんな思想をもとうとも、「自分を正義」にしてよいわけがあるまい。そして、どんな言い訳をしようとも、自分の内部の声を信じて、自分や他人を「自分の神」に捧げることは、とりかえしのつかないことである。
わたしにはナウシカが幸福になったとはとても思えない。それは作者も承知していよう。
ナウシカは「自分の世界観」を絶対肯定してしまった。彼女はその場所(墓穴)にとどまるしかない。自由な翼はもうない。自分の中に巣くっている「狂信的な神」へ、いけにえをささげて、血を流してしまった。血の契約をしてしまった、「その神以外の神」に対しては犯罪者になってしまった。
なぜ世界の各地に「いけにえ」という風習があったのか? さまざまな意味があろうが、有力な理由の一つとして、流した血は「共犯者」としてお互いを縛り付ける効果があるのだ。
連合赤軍の内部抗争により、リンチ事件が発生して死者がでたことがある。だが、よってたかって仲間を殺したことで、赤軍派内部の結束は恐ろしく強くなったという。ドストエフスキーの『悪霊』も参考になると思う。ナウシカの世界は、たしかに平和にはなったろう。腐海の自然と協調してくらしていけるだろう。
しかし私はナウシカが可哀想でならない。彼女は慈悲深い女王としてくらしていけるのか。土鬼の神聖皇帝のような無慈悲な暴君に変貌する可能性はないのだろうか。安心してはいられないのだ。
墓所の主がナウシカに「闇のみだらなにおい」を感じたのは正しいが、もっと痛烈に彼女の根本矛盾をつきさせばよかったのに……と思ったりもする。
墓所の主は正攻法でナウシカを説得しようとしたが、それは原発反対を感情でさけぶ人々に、原発の必要性を、(内心自己の願望の充足だけを願う)技術者が理論的に、専門用語を使って訴えるようなものだった。これでは説得できないのも無理はない。この手の論争は日本では非論理的な者が必ず勝つようにできている。日本的論争で言えば、墓所の主はナウシカの理論でナウシカを説得すべきだった。
(以下、略)
「原発反対を感情でさけぶ人々に、原発の必要性を、(内心自己の願望の充足だけを願う)技術者が理論的に、専門用語を使って訴えるようなものだった」との比喩はなかなか痛快です。ナウシカは墓所の主が持つ生命を都合よく作り変える技術に、本能的に危険な匂いを感じ、拒絶したのでしょう。遺伝子組み換えによるジャガイモを嫌悪するように、と書けば矮小化しすぎですが
ここは宮崎駿の生命観が如実に反映されているのでしょう(目的に合わせて都合よく遺伝子を組み換え、生命を弄ぶような科学技術に対する嫌悪)
ただ、それ自体を独立した思想と言うには無理があり、世界観(生命観)と呼ぶのが妥当であると思います
墓所の主のきわめて科学的な説明をナウシカは非論理的な感情論で拒絶するのですから、それをナウシカの狂気と筆者が感じるのは正常な感覚なのでしょう
自分を含め、ナウシカに感情移入してしまった読者は、その狂気さえ肯定しまうのですから、何とも度し難い話です
さて、筆者は「結論」として以下のように述べています
ナウシカは結局は同じ場所にとどまるために、討論を拒否してしまった。私はこれには賛成できない。
もちろんナウシカ自身も、自分が「自分の精神の利己的保身のため」に行動したとは思ってはいまい。だから無意識に自分がとってしまった行動の意味を知ったら愕然とするだろう。
ナウシカは自分自身がなにかに「呪縛」されているとは気がついていないだけなのだ。だが、呪縛に気づこうと気づくまいと、その支配化にあれば自由はない。
良心の自由が欲しいなら、自分の中に巣くっている呪縛とも戦わねばならない。どんなに苦しくとも。どんな自分が正しいと信じていても。疑ってかからねばならないのである。
理論的にはナウシカは腐海の真実を民衆に伝え、生命のからくりを告発し、呪縛から自身を解き放つべきなのかもしれません。が、すでにシュワの墓所は破壊されたのであり、ナウシカが民衆に何を語ろうとも、科学文明は復活しません。それなのになお、呪縛から己を開放する必要があるのか、と自分は思うのです。開放された場所には、もう何も残っていないのでは?
ゆえに筆者の結論に賛同できません
論理的に破綻した物語(狂気に取り憑かれた姫と無知な大衆)だとしても、多くの読者はナウシカの側に立つのだと想像します
呪縛されたまま、何もかも背負い込んだまま生きる途をナウシカは選んだのであり、それを狂気の沙汰と呼ぶならそのとおりでしょう
筆者は日本の思想的曖昧さ、不確かさを批判するのですが、日本はそうやって21世紀まで生きてきたのであり、この先も思想的曖昧さを内に抱えたまま22世紀まで生き延びるのではないでしょうか?
論理的な正しさがかならずしも物語を豊かにするわけではなく、矛盾や曖昧さも含みながらも読者を刺激し誘惑し、想像力を掻き立ててくれる物語もあるのではないでしょうか
数学の話で恐縮ですが、数学者に求められるのは未解決の難問を解くことではなく、解けるか解けないか分からない新たな問いを提起することだと言われます
宮崎駿が「風の谷のナウシカ」で1つの問いを提起したと考えるなら、十分に意義があったのでしょう。もちろん、問いを突きつけられた我々が問いをどう解釈し、解くのかも大事なわけで
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