「風の谷のナウシカ」 死と再生を考える
宮崎駿の手による漫画版「風の谷のナウシカ」を巡る旅を続けています
取り立てて結論めいたものに辿り着こうという気はなく、多くの人の感想や批評を読みながら考えよう、との目的で続けています
興味のある方はおつきあいください
今回もインターネットで出会った批評を叩き台にさせてもらいます
筆者がどのような方なのか存じ上げないのですが、サブカル評論を書いて公表している人物のようです
引用する批評の狙いはナウシカの変容についてであり、物語の始まりでは心優しいながら正義感の強い少女であったナウシカが幾多の苦難を乗り越えるうちに変容し、最後は筆者の言う「魔女」になってしまう必然性を読み解こうというものです
筆者は以下のように表現しています
もちろん彼女は苦悩して血の涙をながす。しかし、多分かつてできなかったことができるようになった。これは成長と呼んでよかろう。少なくともナウシカ自身の内部においては必然と、とらえているはずだ。
「気に入ったぞ。おまえは破壊と慈悲の混沌だ」俗物きわまるトルメキアの王に賞賛されたナウシカは、もはや死ぬまで罪悪感をもちながら強く生きる孤独な人間である。
物語最後の、能面のように心を閉ざしたナウシカの表情はなんだろうか。
もはや猛々しい聖なる女神でも、驕慢で清らかな処女巫女でもありえない。それはナウシカ自身(作者自身)が選択したことだ。
そして、その選択の原動力というか、到着点に導いた本当の原因は何かというと……。そう。私がこの小文を書くつもりになった動機でもあるのだが。ナウシカ(作者)自身の世界観である。
では、ナウシカの死と再生について述べている部分を引用します
『漫画版 風の谷のナウシカ』によせて
(前略)
ナウシカは一度自殺する。中盤の山場。粘菌と王蟲との消滅と融合への心情的自主参加である。実に日本人らしいといえば「らしい」行為だと悲しくなる。こんなこと書けば多くのファンから反感を買うであろうが避けては通れないのだ。
よく「日本的現象だ」といわれる心中は、自分と他者が感情的に一体化するために発生する。自己の感情の他者への投影が、相手が死ぬなら自分も死のうと思いつめさせる。これを、ひっくり返せば自分の感情が許せば,相手を殺しても当然となるのである。
なぜ少女が死ななければならないのか? 作中に合理的説明はない。ナウシカは人間に絶望して、王蟲を敬愛して、同じ所に行きたいと願って消えてゆこうとする。宮崎監督はアブナイ情景を描いてしまったと思う。自分を殺す覚悟があれば、他人を容易に殺すことまで、あとホンの一歩である。物語ラストでのナウシカの重大な行為は、まさにそれではないか?
作者はナウシカが王蟲と消えてしまうことを一度は選択することで、それまでにナウシカが犯した「巫女」にふさわしくない殺人などの行為を浄化し、風の谷の人間というしがらみをはなれ、人間の枠をこえた神性をもつ物語の語り部としての地位を取り戻そうとしたのだろう。
ナウシカの数々の戦闘での殺人や、戦場での地獄の目撃、人間世界での姫としての扱い、特殊技能者としての活躍は、ヒロインとしての設定からすれば一度はやらせたい「おいしい」情景である。しかし、それらを何度も繰り返せば年若く純粋無垢な乙女という設定が崩れ、テアカのついた大人の汚い女になる。そうなればヒロインとしての魅力も消えてしまう。
ナウシカのヒロインとしての再生のため、作者はナウシカを絶望させ一度死なせなければならなかった。しかし結局それは自己の感情で自分の命を粗末に扱うというだけであって、無垢ではあるが責任放棄以外の何ものでもなかろうか?。もっと恐ろしいことは、それで死んでしまえるナウシカに作者は共感し、読者も感動するということである。作者も読者の多くや私も日本人ではあるが、ふと気がつくと途方にくれてしまわないか?。私も最初の一読はナウシカに共感していたのである。
救われて浄化されたナウシカには、自分の命よりも、他人の命よりも、もっと大切なものがある。そのために自分を平然と犠牲にするし、犠牲にしようと努力する。シュワにある墓所の「清らかな生命の種子」すら滅ぼす。ナウシカは物語が終わっても心優しい少女ではあろう。だが二度目の浄化はない。二度と純真に笑うことはできまい。
苦悩の末に決定的に自分の体を汚してしまうことを選択したのだから。ナウシカは自分のしたことがわかっているのだろうか? わかっていると思うから、「ヤッチマッタ」のであろうし、同じ思いをもっているから作者もそのようにナウシカを描いた。
そして、「漫画・ナウシカ」を評価した「日本人」評論家たちもそのように感じとった。感動し、賞賛し、自分たちの持っている世界観にとって究極の表現と思った。それは、私には、特定の世界観にもとづいたその場限りの判断にしか見えない。まさしく「破壊と慈悲の混沌」である。
墓所でのナウシカの反論を思い起こして欲しい。ナウシカは強く「否」というが、根拠は示さない。
示すのは「私たちは血を吐きつつ、とぶ鳥だ」という、自分の中にある「あいまいな世界観」だけである。確実な論理的絶対点ではない。いってみれば「否」はナウシカの感情にしか「根拠」はないのだ。
いったいどこに万人に納得してもらえる「絶対に誤りのない論理的根拠」を説明する言葉があるのか。あるのはナウシカ本人の心の中にある「確信」だけなのだ。他者を問答無用で排斥する狂信的信仰とどこが違うのだろう?
世界観は、いつも「神」の存在と認識と定義に直結する。ナウシカ(作者)は、「一枚の葉にも一匹の虫」にも「私たちの神」はやどると、誇りをもって語り、過去の人間が作り上げた墓所の「(身勝手な)希望」を「(身勝手に)破壊」するのだ。典型的アミニズム賛歌と、私には見える。
正直に言って、私は「漫画・ナウシカ」を読んで悩んだ。宮崎駿という現代日本においてもっとも影響力をもち、思想的にも優れた作家の到達点であることは確かだ。そしてそれが我々日本人の限界点に近いことも、うっすらとだが瞬時に理解した。ここまでは「漫画・ナウシカ」を高く評価する識者たちと意見は同じである。
(以下、略)
全体としてかなりの長文であり、さまざまな指摘、見解が盛り込まれています。紙面の都合上それら一つ一つに言及できないので、タイトルのとおりナウシカの死と再生に絞って考えることにします
批評では自死を肯定することと、他人を殺害することの間に距離はない(違いはない)と筆者は冒頭で指摘しています。ただ、ナウシカの中では両者はまったく別の次元に属しているのではないか、と自分は感じており、筆者の考えには賛成できません
ナウシカにとってはどのような状況で誰の命を奪うかが重要であり、他人の殺害と自死を同一平面で考えているとは思えないのです(論理的な根拠はなく、単に自分がそう思っているだけなのですが)
ただ、宮崎駿がナウシカを粘菌と王蟲の殺し合う場へと赴かせ、そこで絶望し自死を選択するのは必然性があり、そこでナウシカが一旦は死ななければ先の展開はなかったのでしょう。当たり前の話として、大海嘯は世界崩壊の危機であり、回避する術のない絶望的な状況です。期せずして出くわした1人の少女が為すすべなく茫然自失し、あるいは己の無力に打ちひしがれ、死を選んだとして不思議はありません
宮崎駿の考えがどうであったにせよ、再生を経てナウシカは一段と成長し(物事に動じなくなった、覚悟が決まった、と表現した方が適切かもしれません)、結末へ向けて物語は加速します
古来より英雄譚の中には死の国に赴き、そこから生還する話があります。宮崎駿が意図してか、意図しないでかその形を踏襲したのであり、再生後のナウシカは超人的な能力を身に着けてなどいませんし、救世主になったりもしませんが、以前とは異なる存在になっているものと考えられます(この点はすでに何度も書いています。ナウシカを神にしたり、救世主にしたくないというのが宮崎駿の真意だろうと自分は考えるからです)
アニメ版では暴走する王蟲の群れの前に身を投げ出し、蒼き衣をまとって大地に降り立つ場面であり、再生したナウシカは伝説の勇者か救世主に例えられる存在になっています。このエンディングに宮崎駿自身、不満を抱いていたと推測されるわけですが、アニメ版に関する話はこれ以上掘り下げません
多くの読者はナウシカに感情移入し、あるいは寄り添い、結末に向かって一緒に走り出すのであり、矛盾やら説明不足の行動も「ナウシカがそう望むのなら」と咎めたりはしないのです。再生によってナウシカは自身にまとわりついていたしがらみを一度括弧で括り、いわば独立独歩の形で物語の終盤へと走り始めます。もちろん、風の谷の部族を捨てたりはしませんし、長い旅の途上で関わった人たちを切り捨ていたりもしていません。すべてを背負い、それでも吹っ切れたように(それこそが一度死んで再生する狙いではなかったのか、と言いたいのです)
しかし、筆者はそこで立ち止まり、ナウシカの行動や判断をよくよく吟味しようと試みるわけです
そこで「おかしい」と思い、「間違っているのではないか」と疑念を抱き、そうでない途があるのではないかと物語の外へ(宮崎駿の思考の外へ)出ようと思い至る…と自分は受け止めます。それも物語の読み方の1つでしょう
筆者にすれば、曖昧模糊とした日本独自の精神風土に回帰してしまうようなナウシカの最終的な選択は大いに不満であり、「そうじゃないだろう」と異論を唱えていると受け止めておきましょう
長くなりましたので、本日はこれで終わりにします。機会があれば筆者の重要視する「世界観」についても考えてみたいものです
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