ナウシカとマルクス主義
また随分と面倒な対象を取り上げようとしています
紙屋研究所という書評、漫画評を掲載しているサイトの管理人、紙屋高雪の批評は、マルクス主義的観点から「風の谷のナウシカ」を批判したものです
左翼、しかも共産党系の人物ですから自分の考えとは大きく立場が異なるわけで、そこから何を汲み取れるのかと思いつつ、書いてみます
ちょっと長目の引用ですが、紙屋高雪の言い分は以下のようになっています
『風の谷のナウシカ』を批判する
(前略)
3. 最後にナウシカは何と対決したのか、ナウシカは何を訴えたのか
その最大のものは、もはやここでは、「自然と人間」という構図は消えてしまっていることです。大海嘯、王蟲・腐海さえ人間がつくりだしたというのですから。
※そのほかにも、人間と巨大文明のつくりだした愚かしさの象徴である巨神兵(核兵器、国家、「神」、などをイメージさせます)は、ナウシカを「ママ」とよび、最後にはナウシカに「利用され」、「墓所の主」を滅ぼすこと、また──これはマンガでは初めからそうなのですが──トルメキアは単純な風の谷の侵略者ではなく、ナウシカはトルメキアの従属的な同盟国の代表として、戦闘にも参加し、実際にドルクの軍と戦争することなどがあげられます。しかし、これらはちょっとおいておきます。
「自然と人間」そのものがもはや主題ではないのです。
では、いったいなにがメインテーマになっていくのでしょうか。
それは、自然にしろ、社会にしろ、破滅的な難局を前にしてどんな態度でそれにあたるのかということだと思います。
マンガの『ナウシカ』では、くりかえし、ナウシカを「虚無」がおそいます。乱暴に言ってしまえば、それは絶望とか、投げやりとか、そういうものをあらわしていると思います。破滅的な難局を前にして、ナウシカだけでなく、私たちの前にこの種の誘惑が何度も訪れます。いま、世界全体が、地球環境のことにしろ、核兵器のことにしろ、民族戦争のことにしろ、難局にあります。一人の人生についてもいえるかもしれません。そこから「虚無」、絶望や投げやりに陥りたくなります。自殺もそのひとつでしょう。ナウシカはいちど絶望し、自殺をはかり、大海嘯にのみこまれるシーンがあります。そして、その「眠り」にあるとき、「虚無」がおそい、ナウシカはあやうくそれに呑み込まれそうになります。真実を見きわめること(浄化された世界)、周囲の励まし(セルム)によって、ナウシカは「虚無」から脱出します。これ(虚無)が、ナウシカ(そして私たち)を待ち受ける一つの罠です。
そして、その反対の極に、もう一つの罠がまっています。これが「墓所の主」であり、ちょっとうまく表現する言葉がありませんが、ユートピア的な「進歩と理想の思想」です。「墓所の主」は、人間のみにくさを「浄化」して滅ぼし、新世界をつくろうと呼びかけます。そのために人間の知識と技術を動員しよう、とよびかけています。ナウシカはこれを痛烈に批判します。
「墓所の主」は、愚かしく凶暴な人間を、賢明で穏やかな人間にとりかえ、理想社会を築こうという呼びかけです。
ナウシカは、人間はどこまでいっても清濁あわせもち、その愚かしさゆえに、これからも殺戮と破壊をくりかえすだろうが、自分と自分の愛しいものをまもりつづけて生き抜いていくし、生きねばならない、と主張しています。それは、『ナウシカ』のラストで、ほかに呼びかける言葉もなく、「生きねば…」というただそれだけの倫理が残されてつぶやかれることにもあらわされています。
4. ナウシカの結論は誠実な苦悩だが、臆病な結論だ
私は、単純に「墓所の主」の言葉に与するつもりはありません。しかし、ナウシカにいいたいのです。
「私たちのいま言えることは、ほんとうにそれだけしかないのだろうか?
人間は、目の前の破滅的な難局をのりきる賢明さをもっていることに、もっと確信をもつべきだ。
人間は、いろんなまちがいや紆余曲折をへながらも、進歩をしてきたではないか。
なるほど確かに人間は、どうしようもない、愚かしい部分、おくれた部分をたしかにもっている。しかし絶望のまん延する時代にあって、そのことを百回強調し、大声で叫ぶことに、どんな意味があるというのだろうか。『人間は清いばかりの生き物ではない』『人間は清濁あわせもつ』などというのは、くだらない一般論だ。いまこそ、人間の『清』の部分、どんどん大きくなっている人間の進歩と賢明さに確信をもち、新社会の建設の理想を高らかにうたいあげるときだ!」
人間が聖人のようになって理想社会を建設するという考えはたしかに空想的です。どんな時代でも、人間は進歩的な側面をもちつつ、つねに旧時代の母班をおびた、おくれた側面を複雑に残しているという矛盾した存在です。その意味では、ナウシカの「人間=清濁あわせもつ」という議論は一般的には正論です。
しかし、いま、その一般論をむなしくくり返すことにどんな意味があるのでしょうか。
それよりも、人間がこの20世紀のうちにも大いに進歩してきたことにしっかりと確信をもつべきだと考えます。それは願望ではなく、社会そのもののなかに実際にうまれてきている萌芽なのです。ナウシカ、というより、宮崎駿は、そのことへの不確信ゆえに、ナウシカをあのような結論におわらせたと考えます。
(中略)
紆余曲折があっても、人類は殺戮と破壊を許さない社会を着実に準備しつつあります。ナウシカは「新社会をつくろう! 自然と共生し、殺戮と破壊のない社会を!」とたからかに呼びかけるべきだったのです。それが、多くの人が、アニメ『ナウシカ』でナウシカに共感し期待したことだったのではないでしょうか。マンガの結末は残念ながら、その期待を「裏切り」、臆病な結論におちこんでしまったといわざるをえません。
私たちは、ナウシカの誠実で、ギリギリの苦悩に心をよせながらも、それをのりこえていくべきなのです。
「臆病な結論におちこんでしまった」という括りには賛同できません
これまで取り上げたいくつかの論評は漫画版「ナウシカ」の結末をどう解釈するべきか、理解すべきかというスタンスでした。しかし、上記の批評は漫画版「ナウシカ」の結末を真っ向から否定し、アニメ版「ナウシカ」に感動した視聴者への裏切りであると糾弾しています
紙屋が主張するように、漫画版「ナウシカ」のラストシーンでナウシカは生き残った民衆に向かい「新社会をつくろう! 自然と共生し、殺戮と破壊のない社会を!」と呼びかけるべきだったのでしょうか?
宮崎駿がそうしなかった理由は、ナウシカを救世主や英雄にしたくなかったからでしょう。あるいは1人の英雄に導かれて新たな社会の建設が実現するといった嘘を描きたくなかったと言い換えた方がよいのかもしれません
紙屋高雪は「1人の英雄に導かれて新たな社会の建設を目指す…」は、マルクス主義ではないと言い切るのでしょう
しかし、ソ連のように中国のように、英雄やカリスマ指導者に導かれる仕組みを世間一般では「社会主義」と認識します
つまりは宮崎駿(頑固な左翼思想の持ち主として知られています)の、社会主義への失望が「風の谷のナウシカ」の根底に存在すると考えられます
ただ、社会主義(マルクス主義と敢えて言い換えてもよいのかもしれません)が頼りにならない世界をどう描くかは、個々人の想像力に委ねるしかないのであり、宮崎駿はかくの如く描いた、というわけです
しかし、正しくマルクス主義を理解し、信奉する紙屋高雪にすれば宮崎駿は間違っており、ナウシカも間違っている、と
上記の紙屋研究所のページの「余談」として、宮崎駿がナウシカの連載を終わらせる時期に、マルクス主義や唯物史観を否定し、捨てたと告白する発言が引用されています
紙屋高雪は宮崎発言について、「彼の貧しいマルクス主義観(宮崎の主観)が崩壊したにすぎない」と批判し、あくまでも理想たる社会建設に取り組むとナウシカに宣言させるべきだったと主張しているわけです
自分としてはナウシカを救世主や英雄に祀り上げなかった宮崎駿の判断を尊重します。「あるべき理想の社会」にしろ、「青き清浄の地」にしろ、人は決して手に入れることはできない(幾らかは近づくことはできても)と考えるからです
だからといって諦めたりはせず、死の淵の際にとどまって生きる手立てを模索し、足掻くのも人間の生き方です
ナウシカの足掻きを、苦悩を「失敗」だとか「裏切り」だと切って捨てるのがマルクス主義なら、そんなものはこの世に必要ないのでは、と言いたくなります(マルクス主義の信奉者にすれば、ナウシカへの思い入れなどどうでもよいのであり、より正しい社会の実現こそが最優先であると考えるからなのでしょう)
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