「風の谷のナウシカ」の神話学を考える

2020年の宇都宮大学国際学部研究論集に収録されている大野斉子(ときこ)准教授の論文を引用します
公開された年からも分かるように、最新の論考です
論文にも明記されているのですが、論じる対象は漫画版「ナウシカ」の方であり、劇場版「ナウシカ」との比較は行わないと書かれています
12ページからなる長文なので、一部のみ引用します。全文を読みたい方はタイトルで検索し、PDFファイルを開いてください
ブログの文中で自分は否定的な意見も吐いていますが、時間を割いて読むに値する考察が含まれています
以下、論文の中で結論部分に当たる記述の引用です


「風の谷のナウシカ」の神話学
(前略)
一神教から汎神論へ
以上のことから神を見返すナウシカの眼差しが引き起こしたパラダイム転換がいかなるものであったのかが明確になってきた。
シュワの主は、知性によって生き物を生み出し、地球の生態系を数千年の規模でコントロールし、その果てにユートピアを到来させようとする。
キリスト教の教義にある創造神をそっくりまねたシュワの主は一神教の神になぞらえられる。一神教の神は人間にとって非知であるはずの超越性に根拠を置き、人間にその超越性に近づく特権を与え、全体性を維持するよりも人間を世界から分離し、人間を中心として世界を作り替えていくよう導く神である。
しかしナウシカの眼差しによって一神教は相対化され、人間と自然が交流し、生死が溶け合うところに展開する汎神論的な世界への転換が成される。それは、南方熊楠が探求したスピリット(霊性)の充溢する流動的な構造をもつ。そこでは精神は世界の超越性に触れることはあっても我が物として内部に取り込むことはしない。
グノーシス主義的な構造を持つ『ナウシカ』が最終的に汎神論へと至ることに神話論上の矛盾はないのだろうか。グノーシス主義における至高神は一見すると、創造神以上に純化された唯一神であるように思われる。しかしグノーシス主義においてはむしろ至高神は多産であり、その霊性をあまねく世界へと拡大する多神教的な神話世界を構築する。
あまねく世界に霊が宿るという考え方は、人間には超越的な存在とつながる要素が内在しており、自己の内部で神に出会うことができるという神秘思想へとつながっていくが、こうした考え方はグノーシス主義やキリスト教の枠を超えて、広く世界の宗教にみられるものでもある。例えばシャーマニズムでは、特殊な訓練によってその要素を働かせることができるようになったシャーマンが自らの内部において神とつながると考えられている。キリスト教においても、聖霊を重視する東方正教のヘシュカズムのように、同様の神秘思想は正統の内部に存在している。ナウシカがその眼差しの先にみるのは、一つの民族や文明の宗教ではなく、それらを超えたところにある汎世界的な思想である。


本論文は作品世界への言及→神話としての構造、その特徴の説明→ナウシカの造物主を見返す視線(これは重要です)→グノーシス主義への言及→現代の神話としてのナウシカ→帝国支配と戦争、科学文明批判と進むのですが、そこからやや唐突に腐海に生きる粘菌の話になり、さらに粘菌研究家であった南方熊楠へと話が飛躍します。筆者にとって南方熊楠の生命観や宗教観が重要なのでしょうが、自分は違和感を覚えました
そこから引用した部分であるところの、「一神教から汎神論」に及びます
シュワの墓所に存在する「神」(おそらく人工知能)の正体とその企てを看破したのがナウシカの造物主を見返す眼差しであり、そのときまさに「神は死んだ」わけです
結果、ナウシカが汎神論に到達し、受け入れるのかどうかは分かりません。筆者は汎神論へ至るであろうと結論付けていますが(汎神論とは大雑把に言うと一木一草にも神が宿る、という考えです)
シュワの墓所でのやりとりを踏まえると、ナウシカはこの先(物語で描かれた時点の先です)神と呼ばれる存在に懐疑的となり、神を信じる気にはなれないのではないか、とさえ思います
もちろん、部族の者たちには「青き清浄の地にたどり着く未来」を語り、宗教的儀礼にも参加するのでしょう。しかし、ナウシカは「青き清浄の地」に決してたどり着けないと知ってしまったのですから、そこでいかなる神を信仰できるのでしょうか?
人間と自然が交流するのは大切ですし、十分に意義があるとしても、清浄な環境に適合できない体へと作り変えられてしまったナウシカたちに明るい未来はないのです。清浄な環境に適合できず、死に絶えるしかない運命にあると知って、いかなる神に祈りを捧げるのか?
あるいは何を願い、何を乞うのか?
神の虚構を見抜いた後では、ナウシカが神や、それに代替する存在に祈りを捧げる姿はイメージできません
最後に、筆者は「ナウシカ」から「もののけ姫」、「千と千尋の神隠し」といった宮崎作品を一貫したスピリチュアルなもの、宮崎駿の思想を反映したものととらえています。しかし、「そうなのか?」という疑念を自分は抱きます。「ナウシカ」で提起したさまざまな問題は、漫画版の完結をもって封印されたのではないか、とさえ思います
「ナウシカ」から抱いた宮崎駿の思想をコトコト煮詰めたら「風立ちぬ」が生まれる、とは考えられないので
好き勝手なことを述べるだけで散漫になってしまいましたが、「ナウシカ」を考えるシリーズは一旦、ここまでとします

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