ナウシカの辿り着いた場所 漫画版エンディング
繰り返し宮崎駿による漫画版「風の谷のナウシカ」に言及しています
何かの結論に辿り着くというのは、それ以外の解釈の可能性を否定する行為です
つまり、「風の谷のナウシカ」はかくかくしかじかの物語であり、宮崎駿は○○について△△と語っているのだ、と断じたのならば、それ以外の解釈はありえないと言っているのと同じです
たった1つの結論のため、いくつもの豊かな解釈の可能性を排するのは愚かしい行為でもあります(通常、わたしたちはさまざまな解釈の可能性を論じ、批判し、たった1つの正しい解釈、結論を目指すのですが)
そんなわけでさまざまな解釈の迷路で彷徨い、戸惑い、発見し、驚き、呆れるのも、「風の谷のナウシカ」という物語を楽しむ手段だ、などと思っていたりします
つまり当ブログを読んでいただいても、何かの結論に辿り着いたりはしないという極めて無責任な立場でこれを書いています
今回も漫画版「ナウシカ」のエンディング部分を巡って、あれこれ考えるのが目的です
「風の谷のナウシカ」の研究書として知られた稲葉振一郎の「ナウシカ解読ーユートピアの臨界」(窓社)の原型となった雑誌「季刊窓」掲載の論考、「ナウシカあるいは旅するユートピア」の結末に近い部分を引用します
ナウシカあるいは旅するユートピア
(前略)
ナウシカがこの「青き清浄の地」にたいするときのこの距離のとり方、関係のとり方をどう理解すべきか?
ここでわれわれはあのナウシカと番人の対話を、そこでナウシカが確認したことを思い出さねばならない。けっして自分が愛することのできないものたち、けっして自分を愛してくれることのないものたちと、われわれは同じ世界をわけあって生きていかなければならないということ。そのような、愛の可能性の向こう側にいるものたちにたいして、どのような態度をとるのか?
それは「決して癒されない悲しみ」の問題である。愛の癒しの手が届くことがないところ、誰もが抱えるであろうその「悲しみ」にたいしていかなる関係を取り結べるのかという課題。この問題はむろん「青き清浄の地」にのみかかわるのではない。ナウシカの人並みはずれた愛する能力、さまざまなものをその存在のそれぞれの固有性において肯定する力でさえも審問に付す「青き清浄の地」によって、さらに母の思い出や巨神兵オーマによって、極限的にはあらゆる人、あらゆるものとのかかわりにおいて浮上してくる問題として問われているのだ。
互いに互いの愛の可能性、理解の可能性の外側にいるもの同士が出会ったとき、憎悪と不信の支配するホッブズ的戦争状態はむしろ自然なことである。ナウシカが民衆に「憎しみよりも友愛を 王蟲の心を」と呼び掛けたとき、彼女はまさにこの「決して癒されない悲しみ」の問題にたいして憎悪と不信以外の道のあることを主張していたのである。しかしながら、民衆がそこに聞き取ったのはむしろ救済の福音、無限の愛する力を持ってすべてを引き受ける救世主、神の到来であった。そしてそのすれちがいをそのままに「墓所」への旅に出たナウシカは、「庭」でその道の峻烈なることを思い知らされた。その結果が彼女の最後の欺瞞、救世主の演技を通す決意である。彼女はその道を、あくまで自己の倫理としてのみ引き受けたのである。
この倫理の含意を十分に尽くす余裕はここにはない。当面ナウシカの世界においてはっきりしていることだけを記しておこう。まずそれは世界浄化の計画を拒否することによって、そこにあった人類の生存のためのプログラムをも拒否することになる。すでに述べたように、ノージックの理論にたいする功利主義的な批判、「正義行わしめよ、世界滅ぶとも」の倒錯への批判と同様の異議が、この倫理にたいしては提起されるだろう。それが他のすべての可能性を封殺する傲慢な計画であっても、それを拒否することは人類すべてを近い将来――長くとも数千年のうちに滅ぼすことになるのだから、と。それにたいして彼女は「それはこの星が決めること」(94年2月号、215頁)と答えることになる。たとえ人類が滅びるとも、「鳥達が渡ってくるように」生じるかもしれない他の可能性、たとえそれが人類にとって愛の可能性、理解の可能性の外側にしかありえないものであっても、そうしたものたちのための場所を空けておくしかないと。
引用の冒頭部分で指摘しているのは、ナウシカは母から愛されなかったというエピソードです。ナウシカの母は多くのこどもを生んだのですが、母胎に蓄積した毒がこどもを蝕み、早い時期にこどもたちは亡くなっています。その育たなかった兄や姉の犠牲の上にナウシカは生を受け、育ちました。それゆえ、母はナウシカを愛することができなかった…という話です
そこの部分は理解できます
しかし、ナウシカが民衆に「憎しみよりも友愛を、王蟲の心を」と呼びかけたとき、人々は何を思ったのか?
ほとんどの人にとって巨大な王蟲は暴力の象徴のような存在であり、互いを慈しみ合う心を持った存在であるとは思えないでしょう
王蟲と意思疎通可能なナウシカと、それができない民衆とでは考えが違うのです
以上は些細なツッコミです
さて、上記の引用部分で稲葉振一郎はナウシカが最終的に救世主の役割を引き受けたと表現しているのですが、そこも自分には納得できない見解です
確かにナウシカは獣や蟲と意思疎通可能ですが、だからといって奇蹟を起こしたり、死者を蘇らせたりはできません。奇蹟によって重病人や怪我人の治療したりはできません
何らかの予言めいた言い回しはできるにしても、それは預言者であって救世主ではないのです
ですからナウシカが救世主になったり、神に代わる者(あるいは神と呼ばれる存在)になったりはしないと想像するのですが、どうでしょうか?
加えて、クシャナがヴ王から王位を譲られるも即位せずに、生涯「代王」にとどまった、との記述が漫画版にはあります。クシャナとナウシカが必ずしも類似した選択をするとは限りませんが、クシャナが代王にとどまり決して王位には就かなかったのに、ナウシカが救世主となり神とも呼ばれる存在になったのでは話がぶち壊しでしょう。古の英雄譚にあるように、ナウシカは冒険へと旅だって生還を果たした英雄に分類される存在であり、救世主ではないし、なろうとはしないのがナウシカらしいのでは?
ナウシカであえば彼女を救世主だの、神だのと崇めようとする民衆に媚びたりはせず、一線をひいたのではないか、という気がします。それでもナウシカを崇め、拝む人は山程いた…と推測できるわけですが
漫画版の結末についてはさまざまな議論があり、解釈があります。すべて混乱したまま、破壊された状況で何も解決していないではないか、との指摘もあります。が、物語の終わりにはすべてが解決していなければならない、との決まりはないのであり、何も解決しないままのエンディングもありでしょう。むしろ、そこがナウシカの辿り着いた場所であると考えた方が相応しいとさえ思います
自分としてはむしろ、このように含みのある(解釈の幅がある)終わり方で良かったのではないか、という気がしています
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