構造主義の立場で「風に谷のナウシカ」を語る その2

長い論考の一部分だけを切り取り、ああだこうだと私見をぶつけるのが適切な方法であるかは分からないのですが、他にこれという方法も思いつきませんので、同じスタイルで継続します
さて、西原明史の論文は「ナウシカ」から「ラピュタ」へと言及していきます
「ラピュタ」の物語がエディプスの神話をなぞるような展開であるのは、あらためて言及するまでもありません
パズーの父親は「ラピュタ」を探し求め消息を絶ちます。パズーは父親と「ラピュタ」を探すため、空賊の一味に身を投じ、「ラピュタ」というある意味「迷宮」に到達し、そこから生還を果たすわけです
劇場版「ナウシカ」には登場しませんが、漫画版「ナウシカ」では土鬼帝国の首都シュワにある「墓所」が、「迷宮」に相当します
ナウシカは墓所へ向かう途中、生まれたばかりの巨神兵と遭遇し、彼に「オーマ(無垢)」と名付けます。「オーマ」は急速にその知的能力を高め、自らを「裁定者」と称するようになります。つまり争いを仲介し、調停する者となるわけです(このエピソードは昨日、言及したところの「対立を中和する物語」につながるのですが、これ以上語るのは止めておきます)
さて、このように英雄が「迷宮」へ赴き、冒険を経て生還するというのはギリシア神話をはじめ、世界各地に残る神話や伝承に見られるパターンであり、エディプスの神話も同じ展開になっています


⒊ 宮崎駿作品の構造分析(2)-『天空の城ラピュタ』- 
こうして代表的な宮崎作品の一つが矛盾・対立の調停という機能を持つことが明らかになった。しかし,このような解決の仕方は単なる問題の先送りなのではないか,という誹りは免れ得ないだろう。私自身もそう思う。どちらを採るのか決断できず,あーでもないこーでもないと葛藤した挙げ句,結局どちらも捨てがたいのでとりあえずそのままにしておこうとするような,よくある態度をそのまま骨組みにしたのがオイディプス神話であり,また『ナウシカ』であると言ってもいいだろう。
もしそうであるとするならば,宮崎駿は先延ばしにした結論をどこか別の場所で下すことになるのだろうか。私としては興味深い疑問である。そこで本節では,彼の次の作品である『天空の城ラピュタ』(1986年)を素材に,対立の調停のその後を確かめてみたい。まずはあらすじだが,以下のようなストーリーである。(以下、「ラピュタ」の粗筋なので省略)
炭坑で働く主人公の少年パズーは空から落ちてきた少女シータと出会うが,そのため彼女と一緒に軍隊に追われることになる。実は彼女は天空に浮かぶ要塞ラピュタの王族の末裔で,そのありかの秘密を握っているためである。
同じくラピュタを探す空の海賊たちの力を借りて軍隊から逃げおおせた二人は,困難を乗り越え彼らと共にラピュタにたどり着く。しかし,軍隊の中にいたもう一人の王族の子孫によってラピュタが復活し,その科学兵器を使って地上の破壊を開始する。シータも彼に拉致されてしまうが,パズーと協力してラピュタの破壊に成功し,無事地上に帰還する。
この物語が予想通り対立や矛盾の調停に関与する可能性があるとすれば,『ナウシカ』同様二項対立的な意味を隠し持つキャラクターやエピソードを持つはずである。ところが,ここにはそれを暗示するものはなかなか登場しない。主要な登場グループである軍隊も海賊も,飛行船を駆り,ラピュタを探し求める争奪戦を繰り広げるだけで,彼らの行動からお馴染みの自然の否定や肯定といった隠された意味を読み取ることは難しい。ではこの物語は一体どんな「構造」を持っているのだろう。今述べたように,この物語は基本的にラピュタという「宝物」探しを軸に展開する。実際にこの作品は「宮崎アニメ版『宝島』を目指した」(切通,2001:29)結果作られたようなのだ。ところで,この「宝探し」が夢の中に出てきたとき,ユング心理学ではそれを「暗い無意識の世界から,輝く自分自身,または新しい自我の誕生」と意味付けるという(秋山,1982:177)。とすれば,『ラピュタ』は「心の中の自己の発見」(秋山,前掲書:177)という骨組みを持つ物語だと言えるのではないだろうか。あるいはありていに言えば「自分探し」の物語と言ってもいい。 
それにしてもこれはある意味当然の結果なのかもしれない。矛盾を解決せず先送りすれば,それはわだかまりとして心の底に鬱積することになりかねない。これは精神的に負担となるであろうから,その「感情的な苦痛から逃れるために忘却が生じ,それが意識から閉め出される」いわゆる「抑圧」である。そしてこの「抑圧されたエネルギーが,身体的な神経支配へ置き換えられて」(前田,前掲書:14),何らかの身体症状が現れることになるというのがフロイトの精神分析理論の前提だ。周知の話であろう。そしてこの症状は,「抑圧された無意識的な意味が,抵抗にうちかって,患者に気づかれるようになる」と消失する(前田,前掲書:14)。とすれば,『ナウシカ』で矛盾を先送りした宮崎駿は,今度は「抑圧」を取り除くしかなかったのである。それは具体的に言えば,精神分析を行うということだ。こうして『ラピュタ』は,先述したように「心の中の自己を発見する」という「構造」を持つことになったのである。そして,この「自己」はもちろん宮崎駿自身の自然か文明かという葛藤のことなのである。


ちなみに主人公ナウシカの名前ですが、ギリシアの古典叙事詩「オデュッセイア」第六歌に登場するナウシカアがモデルです。人名はギリシア語表記なので、日本語への翻訳によってはナウシカと表記されたりもします
一般にエディプスの神話は親子間の葛藤、近親相姦のタブーについて悲劇の形を借りて表現したもの、とされます
しかし、ナウシカの父親は物語の冒頭で早々に敵に殺害されてしまい、親子間の葛藤や近親相姦等の問題は表面化しません。これはナウシカが部族の長の娘として、部族の命運を一身に背負うという設定上ゆえ、です
ただし、最初に述べたように英雄の流浪から帰還というエディプスの神話のもう1つの要素は、そのまま「ナウシカ」にも踏襲されています
本日引用した部分については、あらてめて説明する必要はないでしょう
宮崎駿が「ナウシカ」や「ラピュタ」についてフロイトの精神分析やユング心理学を援用した事実はないのでしょうが、物語の構造上、ギリシアの古典叙事詩や神話と同じパターンを踏襲する結果になったと解釈できます
劇場版「ナウシカ」ではご承知のとおり中途半端な表現で終わりを迎えるのですが、漫画版「ナウシカ」では体裁を整え、エンディングと呼ぶに値する終わり方を迎えています
ナウシカの物語をどのように語り終えるか模索し続け、先送りしてきた宮崎駿も12年もの歳月をかけ、ようやく1つの結末にたどり着いたわけです
上記の論文では「ラピュタ」を「自分探し」の物語と表現しています。漫画版「ナウシカ」はシュワの「墓所」を破壊することで「青き清浄の地」には永遠にたどり着けなくなるとナウシカは知るのであり、そうと知りながらも部族の者には嘘をつく選択をします。つまり、「いつかは青き清浄の地にたどり着ける」と嘘をつき続けることを決意するのです
それは部族の長に娘として、部族とともにあり続ける限り彼らを騙し続ける覚悟を決めたことになります。この苦い覚悟もまた、ナウシカがたどり着いた結果であり、彼女の自分探しの結末です
次回(があれば、ですが)は取りこぼした部分を拾い上げて語るか、あるいは別の論考を叩き台にして語るか、まだ迷っています

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