瀬戸内寂聴「殺したがるばかども」発言を擁護するLITERA
瀬戸内寂聴が日本弁護士連合会のシンポジウムに寄せたビデオレターの中で、死刑制度を支持する側を「殺したがるバカもの」と呼んだ騒動の続きです
瀬戸内寂聴はその後、朝日新聞に掲載されたエッセイなど、複数の場で発言を謝罪しています
「仏教者としてばか、という言葉を使うべきではなかった」とか、「ばかとは犯罪被害者の方ではなく、死刑制度を支持する世間という意味だった」などなど釈明も併せて行っています
しかし、上記のように「死刑制度を支持する世間」の中には当然、犯罪被害者をも含むのであり、筋の通らない釈明です
さて、他方でインターネットメディアのLITERAは瀬戸内寂聴を擁護し、被害者感情に配慮した死刑判決、死刑制度そのものが問題だと噛み付いています
無駄に長文の記事なので、その一部のみを引用します
瀬戸内寂聴「殺したがるばか」発言の何が問題なのか?"被害者感情"を錦の御旗にした死刑・厳罰化要求の危うさ
(前略)
しかし、寂聴の発言は、本当にここまで糾弾され、日弁連が謝罪しなければならないようなことなのだろうか。
そもそも、寂聴は被害者遺族を「ばか」よばわりしたしたわけではなく、死刑制度を維持しようとする政府や権力を批判したにすぎない。そして、寂聴の「人間が人間を殺すことは一番野蛮」「日本が(死刑制度を)まだ続けていることは恥ずかしい」という死刑制度批判は、表現が情緒的ではあるが、本質をついている。
なぜなら、死刑は誰がどう見ても「国家による殺人」であり、民主主義国家の理念とは相容れない制度だからだ。
事実、世界を見渡しても、多くの国で死刑制度は廃止されている。国際NGOアムネスティによれば、2015年末時点で、全犯罪に対して死刑を廃止した国は102カ国、執行を停止した事実上の死刑撤廃国も含めれば140カ国にのぼる。
これは国連加盟国の3分の2を超えるものだ。
(中略)
だが、最近の日本で死刑支持が広がっている背景には、もっと大きな要因がある。
それこそが「被害者遺族の感情を考えれば死刑は当然」という声の存在だ。この声は今の日本社会では絶対的な正義とされ、死刑廃止論を唱えようものなら、今回、瀬戸内寂聴に向けられたのと同じように必ず「被害者の気持ちをふみにじるものだ」「自分が被害者の親だったら同じことがいえるのか」という批判が浴びせられる。
しかし、この主張こそ、おかしいと言わざるをえない。もちろん愛する人を奪われた被害者遺族の怒りと悲しみは当然だし、被害者が厳罰を求める気持ちは理解できる。また、日本では長らく被害者遺族の知る権利や補償がないがしろにされてきた。
しかし、そうした犯罪被害者遺族の救済と、犯罪者への量刑をどう設定するかということはまったく別問題だろう。
もし、被害者遺族の感情が理由で死刑判決が下されるのであれば、被害者が天涯孤独で親族がいない場合、どうなるのか。悲しむ遺族が少なければ殺人犯の量刑は軽く、悲しむ遺族が多ければ死刑になるのか。
そもそも、近代刑法は、犯罪を抑止する目的からのみ刑罰を科せられるという「目的刑論」を原則としている。遺族感情によって量刑を決めるのは、罪への報いとして刑罰を科すという前近代的な「応報刑論」的考え方だ。いや、それどころか、「国家の仇討ち代行」という封建時代に逆戻りするものと言ってもいいかもしれない。
(以下、略)
長文なので、全体を通して読みたい方は上記のLITERAのサイトへアクセスしてください
いつものように、世界の多くの国では死刑制度が廃止されている、との主張から出発するのが死刑廃止論の常です
そして、死刑制度は民主主義の理念に反する、とまで決めつけています。民主主義の理念が死刑制度を認めない理由、とは何なのでしょうか?
民主主義の高揚を示す事例として歴史に名を残すのが、フランス革命です。しかし、民主主義の発露であったはずのフランス革命では国王や王妃だけでなく、貴族や反革命派とされた庶民まで次々と断頭台で処刑されました
民主主義の名のもとにギロチンによる公開処刑が行われたわけです
ですから、「民主主義国家であるはずの日本で、死刑制度が存在するのは恥ずかしい」などという発言は、そもそも民主主義を履き違えていると言わざるを得ません
省略した部分では、光市母子殺害事件を槍玉に挙げ、メディアや被害者感情に迎合した世間をLITERAは批判します
光市母子殺害事件だろう。被害者遺族の訴えがメディアで盛んにクローズアップされ、元少年の死刑を望む世論が過熱したことは記憶に新しい。犯行当時、元少年は死刑が認められる18歳をわずか1カ月超えていた。一審と二審では、1968年の永山事件(犯行当時19歳)で最高裁が示したいわゆる永山基準が考慮され、ともに更生の機会を残した無期懲役の判決が下る。ところが最高裁は「特に酌量すべき事情がない限り死刑の選択をするほかない」などとし、この永山基準を事実上破棄する新たな基準を示し、差し戻し審で死刑判決が出た。
永山基準は絶対的で不可侵なものではなく、当時、世間から同情を集めていた永山に死刑を言い渡すため、方便として作られたものだと自分は解釈します
裁判の判例ですら時代の変化とともに見直され、判例と異なるあらたな判決が登場するのは当然でしょう。過去の判例を絶対視し、判例を踏襲するだけの形式的な裁判こそが問題です
そして光市母子殺害事件の犯人は、世間が更生を期待しないほどのゲスだった、という話です
LITERAは犯罪被害者側に立ち、死刑制度存続を主張する弁護士まで批判しているのですが、もう見識も何もなく、ただ死刑制度容認派、支持派を見境なしに攻撃している風に感じられるだけです
そもそも日本は死刑制度を憲法以下の法体系に組み込み、それを基盤にして司法の枠組みが成り立っているのです。死刑制度の廃止は憲法を含む、こうした法体系の破壊につながります。LITERAは確か憲法改正に反対する立場だったはずであり、ならば憲法を改正した上で死刑制度廃止実現を求めるのでしょうか?
司法は血も涙もない、人工知能のように過去の判例を踏襲した判断だけ下す機械であるべきだとは思いません。被害者感情を慮るのも司法の役割でしょう
また死刑制度を国家による敵討ちだ、とLITERAは批判するのですが、それのどこが悪いのか、と言いたくなります
近代刑法は応報刑ではないと法理を説くわけですが、犯罪者に報いを与える側面が刑罰から消えたわけではなく、法理論上の論議だけですべてを語り尽くせるものではありません。悪者は懲らしめられるべき、とする国民の感情を、法律論だけで封じ込めるなど不可能です
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