死刑を執行しない民主党政権への疑問
前任の江田五月法務大臣は死刑廃止論者であり、「死刑制度については議論が必要だ」と述べたまま1度も死刑を執行せず、職務を放棄した状態でした
「議論が必要だ」と公言しながらも江田大臣は、死刑制度を支持する国民と対話すらしなかったのであり、「議論を避けていた」と表現しても間違いではないでしょう
さて、日刊サイゾーがこの死刑問題について、哲学者萱野稔人の論考を載せています。記事は前半までで、後半を読むには有料購読が必要です。後半を読みたいとは思いませんので、前半部分のみを取り上げます)
死刑肯定論や犯罪の正当化も根は同じ!? 道徳的判断を貫く「ふさわしさ」
カントの「道徳論」を引用し、「死刑を望むということは、殺人を肯定するにも等しい」と言いたいようです
中学2年生の理屈みたいです
私怨による殺人と、国家による代理処罰としての死刑を同列に置くこと自体、噴飯物でしょう
日本は明治以降、近代刑法の導入にあたって敵討ちを禁止しました。つまり、家族を殺されても敵討ちは許されず、代わって国が刑罰を執行する制度へと移行したのです
死刑制度の本質は敵討ちにあり、それは被害者感情を慰めるためのものです
同時に、殺人という違法行為を行った者を見せしめとして国の名の下に刑死させる行為でもあるわけですが
ここで考えなければならないのは、死刑は道徳の問題ではなく情緒の問題だという点です(感情の問題と言い換えても可、です)
上記の日刊サイゾーの記事では、「殺人も死刑も同じく道徳に反する」という前提で進められているのは不可解ですし、納得できません
「道徳とは何か」を議論したいのならそうなるのでしょうが、「死刑とは何か」を議論するら、「死刑制度=不道徳」という前提などまったく無益であり、話を惑わすだけです
死刑制度の存続を85%の国民が支持している=日本人は不道徳、などという間違った結論に行き着いてしまいます(それこそ、死刑廃止論者の狙いなのでしょうが)
法律学者や哲学者の議論が被害者の情緒を無視し、空疎な道徳論で押し切ろうとする態度には賛同できません
日本人の85%が死刑制度を支持しているのは、被害者感情を共有しているからにほかなりません。つまり被害者家族の悲しみ、寂しさ、切なさ、憤りといった情緒を多くの日本人が感じ、理解し、受け入れようとする基盤があるのです
江田五月前法務大臣にしろ、現在の平岡秀夫法務大臣にしろ、そうした日本人の情緒などまったく考慮もせず、「死刑制度には議論が必要だ」と放り出したまま、任期をだらだらと過ごすのでしょう
「死刑制度を存続させるか、廃止するか」を国民投票にかけたなら、8割の国民が死刑制度存続を支持するでしょう。ですから、死刑廃止論者である法務大臣はそんな真似はせず、「議論が足りない」と逃げているわけです
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