松戸女子大生殺人事件を考える4 裁判員の責任

松戸市に住む女子大生を殺害した竪山辰美被告に死刑判決が出された件はすでに取り上げたのですが、毎日新聞は裁判員の責任を問う趣旨のコラムを掲載しています

法廷ノート:検証・松戸女子大生殺害判決/下 死刑のハードル 

記事の中で渡辺修・甲南大法科大学院教授は「永山基準で裁判員を拘束すべきではない。裁判員は自分の目の前にある証拠を咀嚼(そしゃく)して刑を下さなくてはならず、むしろもっと重い責任を負う」と発言していますが、何を言いたいのかよく分かりません
裁判員の責任をことさら重大視する風潮は大いに疑問です。中には「死刑判決を下したなら裁判員も死刑執行に立ち会うべきだ」と発言している人たちまでいます
「死刑判決を下した以上、死刑執行に立ち会え。それが嫌なら死刑判決を下すな」と言いたいのでしょうか?
指摘するまでもなく、刑罰は国が責務として国民に成り代わって執行するものであり、裁判員が死刑執行に関わる責務はありません
裁判員は国民の代表として裁判に関与しているのですから、裁判員にあれこれ責任を押し付けるような主張には賛同できません
なぜか死刑判決に限って、「裁判員の責任は重い」と報じるメディアや発言する有識者が多いように感じます。死刑判決でも無期懲役の判決でも、裁判員の負う責任に差はないと考えるべきでしょう。死刑判決だけをことさら重大視するのは、単なる感情論でしょう
死刑判決を下した裁判員を批判するような報道は誤りであり、そんな真似をすれば誰も裁判員を引き受けようとはしなくなりますし、裁判員制度そのものの否定です
そもそも裁判員制度は、プロの裁判官の下す判決が世間一般の感情とかけ離れ過ぎ司法制度への信頼が揺らいだため、国民の代表を裁判に関与させようと企図されたものです
ですから判決の責任を負うのは裁判官であって、裁判員ではないはずです(陪審員制度とは根本的に異なる、と自分は理解しています)
裁判員は専門的な法律知識や過去の判例に照らして判断するのではなく、あくまで国民の1人という立場から裁判に関わればよいのであって、判決に国民感情を反映させるのが役割です
刑務所を出所してから2ヶ月あまりで強盗強姦事件を繰り返し、殺人まで犯した樫山被告は死刑が相当だ、とする判決は国民感情を反映したものと言えます

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