埼玉県で児童生徒の性同一性障害相談が急増

性に関する報道をもう一件、取り上げます
埼玉で小学2年の男子児童を、女子として扱うことにしたと報道されています。同時にこの件がきっかけとなり、埼玉県内の小中学校および高校で児童・生徒の性同一性障害に関する相談が十数件寄せられたと記事で紹介されています


性同一性障害の出現率がどれだけであるのか知りませんが、埼玉県で十数件もの相談があったというのは異常な数に見えます
記事の後半で「安易に性同一性障害と診断しているのではないか?」との懸念が表明されているのですが、同感です
思春期前の小学2年生を性同一性障害と断定するのも疑問があります
性同一性障害を「男性か、女性か」という性の選択の問題だと決めつけるのは短絡的な見方でしょう
重要なのは「同一性」の部分であり、自分が自分であると認め受け入れることができるかどうかが大事なのです。つまり自分(男性)を自分として受け入れられるか、自分(女性)を自分として受け入れられないかという問題です
もちろん性同一性障害については長い間、性倒錯と見なされ、変態扱いされてきた歴史がありますから、頭ごなしに「何でもかんでも性同一性障害だと断定するな」と叫ぶつもりはありません
自分が自分であるという同一性を受け入れられない不全感や違和感といった本人にしか分からない感覚があり、これを他人が軽々しくどうこう言うべきではないとも考えます
ただ、埼玉県のように「(我が子が)性同一性障害らしい」との相談が短期間に十数件も寄せられるのは尋常ではありません
背景としてはジェンダーという思想と、それに対する誤解もあり、「堂々と性同一性障害としてカミングアウトし、周囲もその事実を受け入れるべきだ」とする考えが広がっているためではないか、という気がします(実に薄弱な憶測ですが)
テレビなどのメディアに性同一障害だとカミングアウトして登場するタレントの存在も、こうした風潮に拍車をかけているのではないかと思います
上記の報道の中でも、思春期前に「性同一性障害」だと診断することへの疑問が提起されているように、思春期を通じてこどもたちの心は大きく揺らぎますから、経過を慎重に見守る必要があり、結論を急ぐべきではないと考えます
その上で男性としての自分に同一性を見出すのか、女性としての自分に同一性を見出すのか、本人自身が決めるべきでしょう(それは自分の人生に責任を持つ、という意味でもあります)
報道されているケースについては、周囲との軋轢、偏見を避けるため小学生のうちから女児として扱ってもらった方が本人が余計な負担を背負い込まずに済む、との判断の上でとられた措置だと解釈しますが

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