島根女子大生遺棄事件を考える12 殺人者の語り
連日、見えない犯人について憶測を書いています
とは言え、犯人が逮捕されれば事件の真相がすべて明らかになるというものではありません
「裁判は真実を明らかにする場である」と思われがちですが、実際は検察側の立証に弁護側が反論し、どちらの主張に分がありか裁判官が判断を下す場であり、その判断が「真実」であるとは限らないのです
いかに辣腕の検事でも、犯人の内面については立証困難ですから踏み込んだ主張はなかなかできません
犯人が自分の内奥の物語を進んで供述しない限り、真実は明かされないのです
さて、殺人者の語りがどのようなものか、実際に接する機会がない一般の方は本などの媒体を介してこれを垣間見ることになります
朝日新聞のウェッブサイトで、トニー・パーカー著「殺人者の午後」(飛鳥新社)の書評が掲載されています。作家の高村薫がなかなか凝った文章を書いています
日本では死刑囚との往復書簡という形で作家やジャーナリストがこの手の本を出しています。しかし、当ブログで何度も触れているように、面会や書簡で死刑囚の言い分を聞き出そうとするあまり相手に迎合したり媚たりし、いつの間にか過度に感情移入してしまう(精神分析では転移と呼びます)例が見られます
本来、取材活動は取材対象と距離を保ち、過度に感情移入しないよう自戒しなければならないのですが、実際には死刑囚に同情しその代弁者になっていたりします
ジャーナリストや作家は取材のプロであり、言葉に対する鋭い感性で真実を嗅ぎ分ける才の持ち主であると思われがちですが、実は違います。人の話を聞く訓練ができておらず、人の話から何を汲み取るかその方法論も技術も持ち合わせていない人たちがいて、自己流の取材に走っているだけであったりします
殺人犯に限らず、人は自分の過去を語る際に過去を美化したり、自分を正当化したりと、話しにさまざまな嘘を織り交ぜます。意図して嘘をつく人もいれば、そうと気づかぬまま嘘を語る人もいます
こうした虚実混交の語りを聞き分ける訓練ができていないと、そこから何も汲み取れません
精神分析はむしろ、嘘の部分や語られない部分にこそ重要な事実があると考えます
精神分析が科学であるかどうかについてはさまざまな批判が存在しますが、少なくとも人の話を聞き分けるための理論体系や技術が精神分析にはあります
もちろん精神分析の目的は殺人の動機や原因の解明ではなく、人の行為の意味を探るところにありますので、犯罪捜査に役立つとは断言できません。精神分析によって殺人という行為に何がしかの意味が導きだされたとしても、それは立証困難だからです
今回の事件でも、犯人の行為(殺人・遺体損壊)に意味を導きだすことはできますが、それが正しいと立証するのは困難です
この事件については下記の通り、当ブログで取り上げています
島根女子大生遺棄事件を考える 1
島根女子大生遺棄事件を考える 2
島根女子大生遺棄事件を考える 3
島根女子大生遺棄事件を考える 4
島根女子大生遺棄事件を考える 5
島根女子大生遺棄事件を考える 6
島根女子大生遺棄事件を考える 7「羊たちの沈黙」
島根女子大生遺棄事件を考える 8「次の犯行」
島根女子大生遺棄事件を考える 9 「死と快楽」
島根女子大生遺棄事件を考える10 フェティシズム
島根女子大生遺棄事件を考える11 事件の相違点