元厚生次官殺傷事件を考える1 精神鑑定
元厚生省の事務次官やその妻を殺傷した事件の公判のやりとりを、産経新聞が法廷ライブとして掲載しています
一問一答が記載されているので大いに参考になります
その中で精神鑑定を巡り、被告人が鑑定人に質問するという珍しい場面がありましたので取り上げます。通常は弁護人が鑑定人に質問を浴びせ、「犯行当時責任能力があった」とする鑑定結果が信用できないと糾弾するのですが、今回は珍しく被告人自らが精神鑑定批判を繰り広げています
これは弁護人が被告人に発言の機会を与えたというより、被告人自身が強行に要求したもので、弁護人の法廷戦術ではないと思われます
結論から先に書くと小泉被告は世の中のあらゆる権威に反感を抱いており、裁判所だろうが精神鑑定人だろうが徹底的に批判してやる、と決めてかかっている人です
ですから精神鑑定批判も小泉被告としては理路整然と事実を交えつつ、鑑定人の嘘や思い上がりを糾弾しているつもりなのでしょう
しかし、小泉被告は精神鑑定という制度を根本的に誤解していますし、精神医学に対する知識も決定的に不足しています。つまり「言いがかり」の域を超えないものです
「理論があるなら100人とも同じ結論になる。理論とはそういうものです。学問とはそういうものです」と小泉被告は主張するのですが、ここが間違いです
精神鑑定といえども鑑定人が拠って立つ理論によって見方は変わります。宮崎勤事件で精神鑑定の結果が分かれたことについてこれを批判する人もいましたが、鑑定を担当した大学グループがそれぞれ異なる見地から、異なる理論体系によって鑑定をしたのですから、結果が分かれたのは当然です
「鑑定結果がバラバラだから駄目だ。信用できない」のではなく、異なる見地から考察することに意味があるのです
一つの物体を真上から見ただけでは全体の構造は分かりません。横から眺め、下から眺め、触ってみたり叩いてみたりしてこそ、全体の構造をつかめるのです
精神鑑定もこれと同じで、単一の理論体系、単一の方法論だけで人間を考察するのがベストであるとは言い切れないのです
そして被告人の怒りが鑑定書に「小泉被告は社会に不満を抱いている」と書かれたことにあるのが明らかになります
被告は法廷で演説を始めてしまい、自分は社会に不満など抱いていないし挫折などしていないと強調します。しかし、それが結果として社会に不満を抱いている証であり、挫折し屈折している姿の証明に他なりません
被告自らが精神鑑定の結論の正しさを証明する行動を露呈しているのですから、鑑定人としては苦笑するしかなかったのでしょう
精神鑑定についてはさまざまな批判があるのは事実ですが、だからといってまったく無意味だとか無駄だとは言えませんし、これに代替する方法があるわけでもありません。批判にさらされつつも鑑定人の多くは己の技量と良心にかけて、粛々と鑑定作業に取り組んでいるのが現実でしょう
さらに、批判は鑑定技術の向上や理論への研究にも結びつくと書き添えておきます
精神鑑定に興味のある方は、精神鑑定の第一人者である福島章や小田晋の著作を一度読んでみることをお薦めします
(関連記事)
元厚生次官殺傷事件を考える2 精神鑑定(続)
元厚生次官殺傷事件を考える3 動機を理解できません
元厚生次官殺傷事件を考える4 再度の精神鑑定要求